◇ 無断でのリンク・転載・引用等はお断りします。
◆「被災者の孤独死」 2020年12月13日
8月にまた復興住宅に住む被災者の孤独死があった。「南相馬市小高区の災害公営住宅で、入居していた男性(67)が8月に孤独死していたことが3日、同市への取材で分かった。市によると、8月29日に毎週発行の新聞を届けに行った配達員が、前回分が郵便ポストに残っているのに気付き、知人の市議に相談。すぐに男性宅を訪ねた市議が鍵の開いていた窓から入り、リビングで亡くなっていた男性を発見した。」(2020.9.3 産経新聞)
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南相馬市では5月に浪江町の60歳代男性が自室で死亡しているのが見つかっている。男性は一人暮らしで、病死とみられる。避難元の社協が、新型コロナウイルスの感染拡大で、定期的な訪問を2月から中止していた。市から「水道使用が止まっている」と連絡を受けた警察署員が訪ねて発見したが、既に死後一定時間が経過していたという。(2020.5.17 読売新聞による)
復興住宅での孤独死は、福島県内で43人(2020.3.4 河北新報)、災害公営住宅の孤独死は阪神大震災でもクローズアップされ、発生から25年たった現在も続く課題だ。兵庫県では昨年、75人が孤独死した。(同)
ご本人も家族もそして親戚友人も、「原発事故さえなかったらこんなことにはならなかったのに…」という思いは決して消えることがないだろう。元々復興住宅は、制度的に「隣は何をする人ぞ」である。原発事故と避難によって人間関係が寸断され、今コロナが追い打ちで、人同士の接触が制限され、ボランティアも近付けず、孤独死を防ぐネットワークは機能していない。
原発事故から間もなく10年になるが、被災地には依然として重たい課題が横たわっている。(Kaz)
◆「深い雪の中から」 2020年12月13日
昨年に引き続き、今年もこの時期に「温もり届け隊」から沢山の手編みのクッションや靴下カバーなどがサマリタンハウスに届けられました。昨年もご紹介したかもしれません。
北海道岩見沢にあるボランティア団体です。代表の渡辺さんは現在80歳(電話口から聞くお声は若々しい)。2011年の3.11に結成され、毛糸の手編みで被災者の皆さんを「温めたい」と、48名の腕に覚えのある方々が集まりました。平均年齢が80歳を超える方々によって今まで、靴下だけでも3万足以上を編んで被災地各地に届けられたということです。
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今回、飯舘自治会の集まりにさっそくクッションをお持ちする時、ちょっと気がかりに思うことがありました。同じようなクッションを被災者の皆さんが以前よく作っておられ、色々な場所で何回か頂いたことがあったからです。それで皆さんの様子を見ながら箱から出し始めましたら、「編み方が丁寧」「分厚くてあったかそう」「色がきれい」等などクッションの周りでちょっとした騒ぎのような盛り上がりになりました。
手作りのものは、大量生産になるとどうしてもそれなりの仕上がりになります。丁寧で出来栄えの良いものは多くは作れないでしょう。けれども「温もり届け隊」の作品は、大量でも一つ一つが丁寧で手抜きがありません。工夫が凝らされ、作られた方々の気持ちが伝わってきます。皆さんが喜ばれる様子を拝見して、私たちも本当に嬉しくなりました。
岩見沢は先月すでに50センチを超える積雪だそうです。コロナも加わって集まるのも、毛糸を配るのも難しいそうです。それでも、最近ご主人を亡くされた方、脳梗塞の後遺症のある方がなども新たに加わられて、大小150枚以上のクッション、100足近い靴下カバーを届けてくださいました。
雪の中で奮闘されている渡辺代表にさっそく今回の反応をお伝えしました。まだまだありますからね、という頼もしいご返事。12月クリスマスプレゼントの一つとして皆さんにお届けできるのを密かに楽しみにしているところです。(Chi)
◆「川内村について」 2020年11月10日
村内生活者は、65歳以上(=高齢化率)が38%(日本全体では28%)と、超高齢化地域である。また、川内村民の帰還に関する意向調査では、「戻っている」41% 「戻りたい」23% 「判断がつかない」11% 「転出している」13% 「無回答13%」となっている。(復興庁「住民意向調査」2019年2月発表)
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村は、2011年3月12日18時20㎞圏内に避難指示が出された。14日から屋内退避、16日に全村避難開始。2012年1月31日に村が帰村宣言、同年8月に損害賠償金の支給が打ち切られた。
川内村は、面積約200㎢でその内耕地は約5%、大部分は山林である。
村は1747年から幕末まで幕府直轄(天領)だった。明治政府は山林を国有地にして立ち入り禁止としたが、村は裁判で勝訴し村有地にした。太平洋戦争後に木材需要が増え、村が栄えた時もあった。(Kaz)
◆「福島県民の協力者」 2020年11月10日
Café de FUKUSHIMAの被災者支援は、国内外の協力者・支援者に支えられている。資金や物資もさることながら、「支援を支援する善意の支援者」の存在と心に支えられている。機会あるごとに被災者の方々にも、このことをお話している。
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被災地福島県にも、被災者は元より、社協・役所などの公的機関などにCafé de FUKUSHIMAの支援活動に積極的に協力してくださる方々がいて、助けられている。
この他に、支援活動を通じて知り合いになった数名の一般福島県民の協力がある。横浜市に住み福島県に通う私たちが現地にいないと出来ない仕事を頼んでいる。
今回も、チラシ配布・ポスター掲出・役所との書類のやりとりを友人に手伝って頂いたので、開催にこぎ着けられた所があった。被災者について、その様子や支援活動の有様を被災地から教えて頂くことは、とても貴重な情報である。
福島県に住む協力者は、被災者の役に立ちたいという共通の思いで繋がった貴重な方々であり、Café de FUKUSHIMAにとって、支援を行う上での強力な助け手・無形の資産である。(Kaz)
◆「出会いの場」 2020年11月10日
コロナ下でのイベント開催も回を重ね、多少要領を得てきたかな、という感じです。最初は心配ばかりでしたが、次第に、きちんと感染予防に取り組めば大丈夫、と思えるようになってきました。
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早い方は開始1時間近く前から来られますし、遅刻の方もいらっしゃいますので、どなたにも、手の消毒と検温、マスクの有無を確認等々、怠りなくするよう気を付けています。部屋全体のドアや窓を見て換気の仕方を考えたり、マスクを外してのおしゃべりが始まるとやんわり注意をしたりなどもしています。でもだからと言って心配ゼロとは決してなりません。いつも祈りながらの活動です。
10月もカフェドフクシマを長く続けて来て良かったと思える事に出会いました。
復興住宅には、仮設住宅時代から度々お会いする方がおられます。今回もそんな方に何人かお目にかかりました。その中のお一人に「ずっとお元気でしたか」と声を掛けました。すると「しばらく前、骨折で75日間入院したあと家で療養していたのです。そしたらカフェドフクシマのチラシがポストに入っていたのよ。出席したくて一生懸命リハビリをして、今日ここに来られました。」
ご自分で救急車を呼んでの入院だったそうです。「今日来ることができてほんとによかった、石川さん!」と弾んだ声で話して下さいました。出会いを心待ちにしておられたことがよくわかり、私たちを励まして頂いたようにも思えた話でした。杖をついて笑顔で帰られました。小高でずっと商売をして働き続けてこられた90歳の一人暮らしの方です。(Chi)
◆「新型コロナと被災者支援」 2020年9月30日
政府の都道府県境をまたぐ移動自粛要請の解禁は6月19日でした。Café de FUKUSHIMAの被災者支援は、4月の物資支援を除けば、3月20日が最後で、再開は7月1日からになりました。7月~9月で、9ヶ所・192名の方を支援できました。
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国では、「Go To トラベル」「Go To Eat」などむしろ人出を督励しています。福島県でも9月から「福島県催事等企画・運営支援事業補助金」の募集を開始しました。「新型コロナウイルス感染症の影響により中止が相次いでいる催事等が、地域社会・地域経済に大きな役割を果たしている重要性を踏まえ、感染拡大防止対策の適切な確保やオンライン等の代替手段の活用など、新しい生活様式に対応する催事開催の取組を支援する。」とのことです。
一方で、Café de FUKUSHIMAが支援活動の接点で感じる皮膚感覚では、被災者支援に関係する自治体やその関連団体は、政府や福島県の施策とは異なり、極めて「慎重」です。同業者となかなか同業になれないもどかしさがあります。
最近福島県より県内避難者・帰還者心の復興事業実施状況ヒアリングがあったので、事業を実施するうえでの課題の欄にこの問題についてしっかりと書かせてもらいました。被災者の益になる反応を期待しています。
被災者支援は、今停める理由は幾らでもあるのですが、被災者の皆さんが支援を待っているのは、今回のアンケートを見てもよく分かります。「サイエンス」の問題として合理的で、かつ独断・独善でない感染回避を行いつつ、今後も被災者に行き当たりたいと思います。
今回も、資金・手作りケーキ・衣料品などを皆さんから提供して頂きました。お礼を申し上げます。(Kaz)
◆「飯舘村の避難状況」 2020年9月30日
今年7月末付けの飯舘村公表値によると、住民登録では、1,836世帯・人口5,325人である。避難村民は、県内が1,507世帯3,635人・県外が117世帯200人である。原発事故前(6,209人)に較べると村内に帰還したのは20%、1,243人である。
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県内避難者の避難先は、最も多いのが福島市で、884世帯2,396人、次いで南相馬市が145世帯331人である。県外避難者(200人)の避難先は、北海道から沖縄まで17都道都府県である。
同窓会は、飯舘村の広報で相馬市への避難者(64世帯148人)にも案内し、参加して頂いている。(Kaz)
◆「いわき市で思い出したこと」 2020年9月30日
今回初めての訪問先では、持参しているケーキについて、特に丁寧にお話しすることを心掛けました。コーヒータイムにお出ししているケーキは、名古屋岩の上教会の皆さんの手作りのものであること、そしてそれは、原発事故に被災された皆さんのことを忘れていないというメッセージが込められているということを、説明しました。
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イベントが終わって散会するときに、おひとりの方が、「ケーキを作って下さった教会の住所を教えてください」と言ってこられました。一切れのケーキの背景を受け止めて下さったのだと思いました。
最後にお訪ねしたいわき市は、避難指示が出されなかった地域ですが、多くの方が自主避難されたと聞いています。間もなく戻ってこられた方々、特にお子さんを抱えておられる家庭では、放射能汚染(被曝)の心配がありました。除染をしてもあちこちからホットスポットが見つかったからです。しかし、その心配を言葉に出来ない雰囲気が早くから醸成され、「なぜこっそり心配しなければならないのか」と涙ながらに話されたお母さんの話を思い出しました。
多くの方々の心の底で、この心配と不安が沈殿したままになっているのではないかと思っています。10年という時間も、この問題を解決したとは思えません。(Chi)
◆「福島県民の新型コロナ被災」 2020年9月5日
福島県民は、岩手県・宮城県と同様に津波で被災したが、更に原発事故で、家族・家・生業・故郷を失った。県民の生活基盤や家族関係には、今も多くのこの影響が残っている。その上で新型コロナ過は、追い打ちになった。
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最近、新型コロナによって困窮している県民の存在が分かり、大学生とシングルマザーのわずかながら支援をした。アルバイト収入が頼りだった大学生や、経済的な基盤が弱いシングルマザーである。
大学生の方は、福島大学の学生寮入居者約500人。学校は、「今般の新型コロナウイルスの感染拡大により、本学の学生においても、外出自粛や社会経済活動の急激な変化、アルバイト自粛等により学生生活維持への支障が出てきております。」と緊急支援を求めている。
シングルマザーは、「NPOしんぐるまざあず・ふぉーらむ・福島」(母子、寡婦及び離婚に至る前の母や父ひとりの家庭支援団体)。礼状には、「頂きました品は、母子家庭の方々に配ります。母子家庭の親子が笑顔で毎日を送れるようにこれからも支援を続けていきたいと思います」とあった。
既に日本キリスト改革派教会中部中会(26教会)から多額の「お米代」を大学生に届けて頂くなど、有志から連帯して頂いている。皆様にもこの状況を広く知って頂きたい。
(Kaz)
◆「福島を忘れないで」 2020年9月5日
被災者の方々が今、政府や東電に対してどのような思いでおられるのか、伺う機会が少なくなりました。事故後10年という時間の経過や、今とこれからの暮らしのほうに目を向けざるを得ないという状況からかも知れません。
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しかし、安倍首相が辞任会見で、「東日本の復興のために多額の予算をつぎこみ、全力を注ぐことができた」との発言を受けての福島の人々の言葉を報道で知りました。「まだ生活を取り戻せていない」「復興は道半ば」等など。
家・生業・家族・地域などを失った末、復興住宅が終の棲家となった方々。今回の訪問でも、「コロナが大変」というような話題に終始しました。けれども、「復興に全力を尽くした」と胸を張られると、「それは違う」ときっとおっしゃりたいと思います。支援が不十分という意味だけではありません。
低線量被曝も含め放射能被害を受けた方々にとっては生きている限り、自分と家族の健康不安が消えない、という苦悩が横たわっています。それはコロナ前も今も何も変わっていません。その苦しみを抱えて今も福島と全国に暮らしている方々がおられることを、せめて忘れないでいたいと思います。(Chi)
◆「原発被災者支援=絶滅危惧種?」 2020年9月5日
辛抱強い東北人の被災者は、今の状況を「仕方ない」と諦観しています。「新しい日常」は、「(コロナ)前もそうだったが、その時よりも人と話さなくなった」と被災者が語るように、孤立・孤独だけでなく、セーフティーネットワークの消失で身の安全も脅かされる「新しい日常」になりました。
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「世界は元に戻らない」「新しい日常new normal」「withコロナ時代」は、原発被災者にとって癒えていない傷をかさぶたのように覆い、世間の人々の記憶から消え、同情も支援も過去のものになっています。
原発事故からあと半年で丸10年、今や「新しい日常new normal」の前で、今どき原発被災者を覚えて訪れる支援は、今や「希少種」「絶滅危惧種」です。しかし、同情と共生は、被災者にとって今なお励ましになることです。
Café de FUKUSHIMA は、往時の支援者数には及ばなくても、もうしばらくは「withコロナ」時代に適応した被災者支援を続けるつもりです。(Kaz)
◆「久しぶりの高速常磐道・コロナと腹話術」 2020年7月12日
久しぶりの高速常磐道は、複線化工事がかなり進んでいました。放射線量を知らせる電光板の数字は、相変わらず2.3μ㏜/h から下がらないままです。
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これは高速道路ぎわの数値ですから、山林近くはきっともっと高いはずです。
以前の工事は重機が多く動いていた感じでしたが、今は人海戦術のように多くの作業員が働いていました。マスクをしている人すらまばらで、放射能に対しては感覚がマヒしているのかも知れません。またそうでなければ働けないのでしょう。
今回3カ所訪問の最終日に、腹話術をしました。マスクをしたままでは腹話術の意味がありませんので、フェイスシールドをつけて行いました。長い自粛生活を送ってこられた皆さんにとっては、このような物を近くで見るのは初めてだったかもしれません。腹話術の間、かたい雰囲気が最後まで解けない印象が残りました。「感染源にならない」という配慮と、楽しい時間を共有する、を両立させるのは難しいことをだと思わされました。」
今回の急なお願いにもかかわらず、ケーキづくりを快く引き受けて下さった名古屋岩の上教会の皆様に感謝です。会場でケーキの説明には力が入りました。(Chi)
◆「南相馬市の園児たち」 2020年5月12日
南相馬市原町区は、原発事故後5週間屋内退避勧告、その後4月22日~9月30日は緊急時避難準備区域だった。今も汚染状況重点調査地域(地域の平均的な放射線量が1時間当たり0.23マイクロシーベルト以上の地域を含む市町村)である。
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Café de FUKUSHIMAは、被災地に住む子どもたちも、支援の対象にしている。子どもたちや先生方に元気になってもらいたいと、学童保育所や幼稚園なども訪問している。
今回訪問した園は、2011年3月15日~10月10日間原発事故により休園したそうです。先生方は、4月25日~7月29日の間、避難せずに残り、屋内避難している子どもにホールを開放しました。
100余名の園児の実に素晴らしい元気な反応に感動しました。みんな3.11後に生まれた子どもです。
被災した両親の避難生活が子どもの成長に深刻な悪影響を与えたというレポートが最近出ました。子どもたちは、これを払拭・回復されなければなりません。私たち大人の責任です。(Kaz)
◆「川内村の水害支援」 2020年2月8日
今回の支援期間(2019.11.8~11.19)も、たくさんの教会や個人から、人から、水害被災者支援の資金や物資を託された。
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川内村については、米・缶詰・ホッカイロなど、車に積めるだけ積み運んだ。また、積み込みきれない分は、宅配便で送った。
川内村には、村民が郡山市の仮設住宅に避難していた当時から、避難者を支援しているNPO法人「昭和横丁」(代表志田篤さん)がある。以前からの知り合いで、村内に物資を配るネットワークもあるので、物資を託した。
昭和横丁は、原発や水害の被災者支援で、直接住民との間にパイプがある組織として極めて珍しい。川内村に限らず近隣の町村民からもSOSがあると聞いた。川内村民の立場に立てば、貴重な存在で、支援団体にとっても同じ。(Kaz)
◆「筆甫地区(宮城県丸森市)の原発事故被害」 2020年2月8日
筆甫地区は、原発事故被害を受けており、東電は福島県並みの賠償をしている。
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“宮城県丸森町筆甫地区の住民約700人が、隣接する福島県と東京電力福島第1原発事故の損害賠償額に差があるのは不当として、増額を求めていた裁判外紛争解決手続き(ADR)で17日、東電が和解案を受諾した。
筆甫地区の被害は福島県の自主的避難対象区域と同水準と認め、東電が差額を払う内容。妊婦と18歳以下の子どもの賠償額は28万円が52万円に、それ以外の住民は4万円が12万円になる。総額は約7千万円。”(日本経済新聞 2014.6.17)
筆甫は、相馬市の西、原発の北北西50㎞にある。3/15〜3/16は原発からの放出量がもっとも多かった日長時間にわたって北西方向に放射性物質が運ばれたといわれている。宮城県でもこのような地域があることを私は知らなかった。(Kaz)
◆「ある津波被害者の今」 2019年11月8日
メニエール病の発症・・前向きに生きようと決心
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今回最終日にお尋ねした「萱浜和み会」は、主に津波被害者の集まりでした(南相馬市原町区ですから、皆さんは原発被害も併せて受けておられるでしょう)。
イベント会場となった集会所(写真)周辺は、津波で家を失った方々が、集団移転をして来られた住宅が集まっている所でした。窓口になってくださったMさんに何度も電話で場所を尋ねて、やっとたどり着けました。住宅のある場所の東側は、海までの広々とした景色が広がり、ほとんど建物らしいものがありません。荒涼としたその風景を見て、かつての山元町を思い出しました。甚大な津波被害を受けた当時の山元町は、住宅の土台も樹木もすべてなくなり、空と海と地面だけが延々と広がっていました。2011年6月頃のことです。あまりの驚きに言葉を失い、何もない場所に見入ったのを覚えています。
Mさんがぽつぽつと身の上話をしてくださいました。早くに夫を亡くされ、夫の母親と二人暮らしの時に津波で家を失い、山形や原町区のアパートなどを経て、仮設住宅での二人暮らしになった。疲れとストレスからか、メニエール病を発症し、日常生活にも支障を来たした。近所の人々の助けでようやく生活が成り立つ状態だった。難病指定のこの病気は完治することはないと思い、前向きに生きようと決心した。近くで開かれる体操教室などに積極的に参加した。やがて参加する側から、主催する側に回るようになった。「萱浜和み会」もMさんが社協と相談しながら立ち上げられたグループなのだと言う。集会所のすぐ前にご自分の家を建て、息子さん一家、お姑さんと共に暮らしておられる。
久しぶりに津波で家を失った方々と話し、かつて、亘理町や山元町で傾聴した多くの津波被害者の話を思い出しました。しかし萱浜の方々は、津波被害に加えて放射能の心配も抱え、心労の多い今までの生活だったことでしょう。驚いたことに、Mさんの義理のいとこにあたる方が今度の台風19号の被害に遭い、命をなくされた直後だったことも伺い、掛ける言葉も見つかりませんでした。
この台風の被害を至る所で目にして横浜に戻った後、豪雨災害に再び見舞われた現地のことを心配しています。川内村で聞いた「流失したフレコンバッグ18個のうち2個の中身が空っぽだった」という話も大きな気がかりの一つです。(後に、その数が44個(川内村だけで。全部で91個)に増えていることを最近の(11/1)報道で知りました。)(Chi)
◆「統計から外される避難者」 2019年5月4日
復興住宅で暮らす人は「避難者」として数えない。復興庁は14年8月、避難者を数える全都道府県に対し、「避難者」を「震災をきっかけに住居の移転を行い、その後、前の住居に戻る意思を有するもの」と定義した通知を送った。意思の把握が難しい場合は、家を買うことなどで「避難終了」とみなしてよいという趣旨も記した。
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福島県ではこの通知を根拠に、避難先で家を買った人、復興公営住宅や災害公営住宅で暮らす人を「生活が安定した」として「避難者」として数えない。(以上 2019.5.22 朝日新聞)
今回も、「避難者」としては数えられない、多くの避難者にお会いした。
「避難者を社会的に隠す行為で、事故の深刻さを覆い隠すことにつながる。避難者数は支援策を考える上での指標の一つ。現状をきちんと反映させるべきだ」(同)との指摘はその通りだと思う。
避難者数が少なくなれば、その分だけ原発事故被害が小さく見える。毎回出会う被災者の方々は、「帰りたい」という思いが強い。しかし、そのほとんどは最早避難者にはカウントされない。
現地で聞く「見捨てられている」という被災者の述懐には、心が痛む。私たちは、避難者からは除外されてしまった被災者・避難者の方々に、支援を通して、同情し共生することを続けていきたい。(Kaz)
◆「仮設住宅後、被災者はどこに?」 2019年4月9日
3月末でほとんどの仮設住宅が閉鎖される。福島県では、6市町村で約150世帯(約250人)が残るとみられる。(2019.4.1河北新報)
しかし、被災し避難指示が解除になった市町村民数は、住民票で47,721人、実際に居住しているのはその23.0%である。市町村別では、田村市都路地区81.3%。南相馬市41.4%、楢葉町52.2%、浪江町6.1%、富岡町9.2%、飯舘村18.4%である。(2019.3.7共同通信)。
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実際の帰還者は、「公表値よりもっと少ない」と言う避難者も少なくない。
「浪江町の解除済み区域(14,535人)の居住率は、2月末時点で6.3%(910人)に低迷。実質的な帰還者は半数程度とみられる。」(朝日新聞2019.4.7)
36,700人以上が帰還を果たせずに避難生活を続けている。復興住宅は福島県内15市町村に72ヶ所、4,890戸建設される。4,767戸(97%)が完成している。復興住宅住民数は公表されていない。報告者は、約7,500人と推計している。
仮設住宅後の支援は、復興住宅と、県内外に散らばった36,700人ということになる。(Kaz)
◆「250台のトラックの列」 2019年2月16日
常磐自動車道は、大げさに言えば、放射能汚染土運搬専用道路のようです。
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常磐自動車道の南相馬IC-いわき中央IC間(上り車線)で、すれ違ったフレコンバッグ゙を積んだ10トンダンプトラックが250台です。今月のスケジュールを終えて横浜へ帰る土曜日の午前中、約1時間余りのことです。
毎回見かける光景で、その数を数えかけたこともかつてあったのですが、今回はちゃんと数えてみようと思い立ちました。最初に出会ったトラックから、かなり正確にカウントしました。限られた区間で1時間余り、同じ目的で走行する車両がほぼ250台、という結果には驚きました。しかも、こういう状態がこれから何年も続くのです。(環境省によると、2018年度は11月10日までに、県内で輸送車両数のべ127,572台。毎日2,000台といわれる。)
トラックの前面に、「除去土運搬 環境省」という緑色地の表示がエプロンのように取り付けられていて、かなり遠くからでもわかります。しかし、この表示は正確ではありません。積んでいる土は、工事か何かで出た廃土のようなものではありません。原発事故で放射能汚染した田畑や道などから削り取った、大変危険な土なのです。農業県福島の広大な土地から出た汚染土は、膨大な量になって、各地の仮々置き場に置かれています。それをトラックに積んで、大熊にある中間貯蔵所に運んでいるのです。1時間余りでこの数ですから、1日に走行する台数は大変な数になるはずです。
常磐自動車道は、この区間に限って大げさに言えば、放射能汚染土運搬専用道路のようになっています。次々と並んでやってくる車両の間を一般の車が走っている、という印象さえ受けます。道路複線化工事はそのために始まったのですが、完成までにはまだ時間がかかりそうです。完成しても、多少の渋滞緩和が図られるだけで、一般車両と共に使わざるを得ない状況は変わりません。
放射能の塊を積んで運ぶ運転手、道路工事現場(線量の高い所が多い)で働く人々、この車両が行きかう一般道近くで生活する市民のみなさんは、危険と隣り合わせの大きな不安な状態になって久しいと言えます。これだけの数ですから、いつ運搬車両事故が起こっても不思議ではありません。
世界が試みたことのない広大な土壌除染作業です。除染を終えた場所でも、帰る人たちは少ない状況に、この方法が成功しているとは言い難い思いです。原発事故被害は、なんと重たいことでしょう。オリンピックに向けて「福島は大丈夫」とアッピールされている現実の福島は、まだこのような状態です。(Chi)
◆「本宮市を訪ねて」 2019年11月18日
水害からの復興もまだまだという時期に、原発事故被害について、昨日のことのように話されるその方を見て、今なお被曝の不安も持っておられるのかも知れない、と想像しました。
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今回の最終訪問地、下田第2復興住宅は、10月の大雨で甚大な被害があった本宮市街近くにありました。
しかし、高台に位置する場所でしたので被害を免れ、イベントを計画通り実施できました。それでも、本宮駅周辺広範囲が水没し、ひどいところでは水浸4mという被害を受けた場所近くでしたから、病院、買い物、介護施設などでさまざまな影響を受けられているようでした。
ともかく無事でよかった、という思いでイベントを始めました。そして食事の時間になった時、隣に座った方が3.11当時の話を始められたのです。本宮がどれほど原発事故被害を受けた所なのか、詳しくは知らなかった私にとって新たな認識となりました。
会津で暮らしておられたその方は、息子さんの結婚を機に、12年ほど前、本宮に移って来られたのだそうです。そしてその数年後、東日本大震災に遭われました。原発から60キロの所で、避難指示などはなかった地域でしたが、市内の至る所で除染作業が進められ、生活が一変しました。いつも埃っぽく、重機や車両の行きかう音がうるさく、落ち着かない日々だったようです。何よりも心配だったのは、まだ幼い孫のことでした。将来この子にどんな影響が出るのだろうかという不安でした。機会を見つけては、孫を連れて会津に避難して過ごす日が続いたということです。
周りでも、期間を区切って子供を連れて県外で過ごす親御さんがあちこちにおられたようです。どうしても母子だけの避難になり、二重生活に苦しんでいる家庭も多かったようです。「2μ㏜以上あったのが、土を削り、全部の芝を張り替え、除染を終えた時は、0.162μ㏜になったと聞いた。それが安心できる値なのかどうかわからなかった。」
日本中に、自主避難された方々がおられるわけですから、本宮でこのような話を聞くのは当然なのかもしれませんが、内心驚きました。避難指示がでていない県内のあちこちで、除染作業をしているのを今まで何度も目にしてきましたが、いずれも部分的、小規模という印象だったからです。
原発からの距離と被害は必ずしも一致しないということは、早い時期からの私たちの認識でしたが、本宮も場所によってはそういうことだったのです。 水害からの復興もまだまだという時期に、原発事故被害について、昨日のことのように話されるその方を見て、今なお被曝の不安も持っておられるのかも知れない、と想像しました。(Chi)
◆「生活再建は、根底のところで進んでいない」 2019年8月26日
福島県民の忍耐と我慢と諦めの上に、復興らしきものが乗っかっているに過ぎず、「生活再建は根底のところで進んでいない」のです。
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「福島の暮らし」 「被災者の生活再建は、根底のところで進んでいない」 最近、ある新聞の投書欄に原発被災者の方(大工さん)が、次のように書いておられるのを読みました。
「事故後8年半経つが、被災者の生活再建は、根底のところで進んでいない」。震災後、仕事には困らない職業の方だと思っていたことから、意外な実情を聞かされました。「生まれながら田舎の大きな家での暮らしから、突然仮設住宅での暮らしになった事ひとつとっても、高齢者にはなかなか馴れることは出来なかった」
今回、故郷が同じで、帰った方々と、そうでない方々とのイベントを、それぞれの居住地で開催しました。現在の生活に対して不満や不安を口にされたのは、帰られた人からの方が多かったような気がします。病院が足りない(歯科・皮膚科はない)、薬局がないため処方箋は隣町まで行かなくてはならない、買い物が不便、等々。イベント開催場所の近くでは、「除染中」ののぼりを見かけました。
皆さんの話を聞いていると(初めて聞く話ではありませんが)、住民の帰還を促した行政には、想像力があるのだろうか、と情けなくなります。若い人や子供の帰還が少なく、多くが高齢者になることはわかっていたはずです。そういう方々にとって、医療・買物はインフラに近い、最低の受け入れ準備です。 「食べる物は何とか食いつないでいるが、困っているのはお医者さんだ」と切実に話される方がいて、胸が痛みました。
戻らないことを決めた人々は、大きな決断をさせられました。沢山のことを諦め、生まれ育ったところから出て、新しい地域での暮らしに不安を抱えて歩み出されたのです。復興住宅に暮らすある女性は、「こんなに早く一人暮らしになるとは思ってもみなかった」「家を解体するのも辛かった」と嘆いて、いっきに話されました。農家の方々は、仕事と暮らしと地域、そして一緒に暮らす家族をいっぺんに失いました。これらの多くは、お金では贖えないものです。故郷へ帰った人もそうでない人も、冒頭で紹介したように「生活再建は根底のところで進んでいない」のです。他のさまざまな自然災害と原発事故被災の違いではないかと私はよく思います。
空気、水、土などに不安を持ちながら暮らす暮らしとは、どういうものでしょうか。しばらく前になりますが、「自分たちはお金では買えないものを失ったことに、やっと気が付いた」とおっしゃった方がいました。また、息子さん一家と暮らすあるお年寄りの方が「お嫁さんは今なお、洗濯物を外に干さず、孫たちには魚を食べさせないようにしている」と話されました。私は、この話を「神経質すぎる!」と、聞き流せませんでした。福島県民の忍耐と我慢と諦めの上に、復興らしきものが乗っかっているに過ぎず、「生活再建は根底のところで進んでいない」のです。(Chi)
◆「再び、“寄り添う”ことを考える」 2019年7月31日
実効の伴う支援は出来ないかもしれないけれど、豚汁やコーヒーと共に、福島の皆さんの側に、寄り添っていこう。これなら私にもいくらか出来るかも知れない。
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南相馬市に避難し、借り上げ住宅に住んでおられる飯舘村の方々の自治会ができたのは、4、5年ほど前でしょうか。K前自治会長さんのご尽力がなければ、立ち上がらなかったでしょうし、20回ものイベントは続かなかったと思っています。そのKさんの奥様がお亡くなりになったと、今回イベント会場に到着するなり、知らせて下さる方がいました。
その日Kさんはお休みでしたので、道案内をして頂きながら帰り道にお宅(南相馬)に寄らせて頂きました。Kさんは、奥様の死を「10年早かった」とおっしゃって肩を落としておられました。(奥様は80歳をとうに過ぎておられます!)
ご自宅に招き入れられ、奥様のことや飯舘村のこと等あれこれ話し込んで、結局一時間以上お邪魔してしまいました。
先祖が村の開拓をしたのを引き継ぎ、米、畜産、花、野菜、など随分手広く農業をされたようです。沖縄で戦死されたお兄さん(長男)の写真が飾られていました。「そこそこの農業では、子供たちに教育をすることは出来なかった」、「何でもやった」、と専業農家の厳しさを語られました。
かつて村議会の議長もなさっておられ、今でも、村の運営についての懸念や心配、憤りなどを話されます。福島の復興について、本質を突くような話の内容だと思いました。庭で作っておられる野菜をたくさん頂いて帰途につきました。親戚でもないKさんのお宅に上がって、長時間話ができたことが、何か不思議な気がしました。
カフェドフクシマの働きを始めた頃、よく、「フクシマを忘れていない、ということを伝え、皆さんに寄り添っていきたい」、ということを書いたり、話したりしました。そのことを忘れてはいませんが、気持ちの中では、「具体的な支援」をすることや「役立ちたい」という思いが常に横たわっていたように思います。
しかし、「原発被災」という、世界でもほとんど経験していない、被害の全貌もよくわからない、人間には解決不能と思われるとてつもない被害を受けられた方々に、実際、「支援」など出来るのだろうかと思うことが度々あるのです。
そういう時、最初自分が言った言葉に戻されました。実効の伴う支援は出来ないかもしれないけれど、豚汁やコーヒーと共に、福島の皆さんの側に、寄り添っていこう。これなら私にもいくらか出来るかも知れない。そんなことを考え、肩の力がいくらか抜けたように感じていました。そのような中で、Kさん宅訪問があり、自然な成り行きでのこの弔問でしたが、私にはとても得難く心地よいものに感じられました。
今回、三女夫婦が参加し、「名古屋から来た」と紹介した時、皆さんがニコニコとされました。遠方から来てくれた、覚えてくれていた、という喜びではなかったかと思います。
みなさん、来て下さるだけで十分です。どうぞ、福島へ来てください。(Chi)
◆「コミュニティー再生とCafé de FUKUSHIMA」 2019年7月31日
住民のことは個人情報として明かされず、新コミュニティーの形成を阻害し、孤立が解消されていません。
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復興住宅は、自治会が出来ていなかったり、解散してしまったりなどもあり、なかなか住民同士の交流が進まないところが少なくありません。住民のことは個人情報として明かされず、新コミュニティーの形成を阻害し、孤立が解消されていません。
団地内だけでなく近隣の住民の方々とも交流が進めば、原発事故で喪失したコミュニティーを、避難先で幾分かでも取り戻せるでしょう。Café de
FUKUSHIMAは、イベントに近隣住民の方の参加を歓迎しています。
避難者は、差別などを恐れ、「近所には避難民だと知られたくない」と警戒ながら暮らしていた方々です。イベントに参加される地域住民は、「仲良くなりたい」と考える方々です。両者を繋ぐ機会が提供できればと願っています。(Kaz)
◆「原発事故被害の沈潜と震災関連死」 2019年6月29日
この所皆さんから聞く声には、往時の悲惨さが薄らいだように感じます。
しかし、震災関連死は、被災3県で福島県が最も多く、しかも増え続けています。
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この所皆さんから聞く声には、往時の悲惨さが薄らいだように感じます。原発事故から8年経ち、以前に比べれば避難生活もある程度落ち着いたのだと思います。記憶が薄らぐことや、事故前の生活との落差に慣れることもあるでしょう。しかし、元の生活を取り戻したわけではありません。
アンケートでも、およそ半数の方が「いずれ戻りたい」か「戻りたいが戻れない」です。現住所が安住・永住の地になっていません。そして、「原発事故さえなければ」という憤懣・鬱憤は、表現されなくなり沈潜したのであって、依然として消えずに残っています。
これらは、自死・孤独死などの震災関連死が、被災3県で福島県が最も多く、しかも増え続けていることに如実に表れています。
震災関連死の状況(2018.9.30復興庁データ)
岩手県 467名 年間の増加 1名
宮城県 928名 年間の増加 1名
福島県2,250名 年間の増加23名
原発周辺9市町村(田村市、南相馬市、川俣町、広野町、楢葉町、富岡町、川内村、葛尾村、飯舘村)帰還者の「心理的苦痛」(将来への不安や気分の落ち込みなど)についての調査では、「重篤な心理的苦痛を抱える帰還者」の割合は、平時の全国平均の2倍を超えることが明らかと発表されています。(福島県立医大の調査
2019.03.29 SYNODOS)
時の経過は、政府からも世間からも、「もういいだろう」と忘れられてしまう恐怖として、被災者に迫ります。この立場に我が身を置くと、容易に想像できます。
東京五輪の聖火リレーが、福島から始まります。「復興五輪のメッセージを強く押し出すべきだ」と「復興したことの象徴」として福島の名が使われます。未だに復興も復旧もしていない被災者・避難者にとって、「復興済み」を強要することになると私は思います。(Kaz)
◆「あぁ、『までい館』」 2019年6月29日
「までいな生きかた」を、誰も奪うことは出来ない
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1982年、フランスで始まった「世界で最も美しい村」協会、という活動がある。
都市モデルの成長信仰から脱却して、地域の歴史的文化価値を高めて観光資源として世界に発信し、小規模農家を支援することなどを目的にしている。
その後活動が世界に広がり、ベルギー、イタリア、カナダにもおよび、日本も2010年に加盟した。厳しい資格審査を経て、飯舘村は早い時期に選ばれた。山里の風景の美しさだけでなく、「までい」に生きる、その暮らしぶりも評価されたことを、2015年、新聞の小さな記事で知った。「世界で最も美しい村」協会の世界大会が、北海道美瑛町で開かれる、という記事の中で。内容はほとんど飯舘村のことで占められていた。当時、村は全村避難が続いていたため、世界大会への参加資格を失っていたが、特別枠で参加が許された、と報じていた。
「までい」(真手・両手)とは、「丁寧に、心を込めて」、というような意味だそうだ。早さや成果を一番に求めず、その過程を大切にする、との考え方だという。当然スローライフになる。一朝一夕に実現できることではない。飯舘村は、そういう哲学を根付かせている村だったのだ。それは村民の誇りでもあった。無くしてはいけない村、ぜひ帰りたい村であったに違いない。
しかし福島県内で、飯舘村住民は、放射能の内部被ばくが一番高いというデータが残されている。行政の判断が遅れ、避難指示命令が事故後2か月近くたってからだったのが、その理由のようだ。
最大120万袋を超えた飯舘村のフレコンバッグの数が、土壌汚染の深刻さをも示している。除染を繰り返して避難指指示が解除になった時、多くの村民の帰還を促したい、という村の涙ぐましい取り組みがなされてきた。
その一つが道の駅「までい館」の建設だった。レストラン、コンビニ、土産物店、生鮮品売り場、フードコートなどが集まった魅力的な施設になっている。広大な土地に、見事に整った建物。女子トイレ横に備わった授乳室は、見たことがないほど立派なものだった。若い人がほとんど戻っていない現状で、戻って来てほしい、という行政の切なる願いが込められた建物のように思えた。
「までい館」は、建築中にもこの横を通ったことがある。「従業員募集」の大きな張り紙を目にした。集まるだろうか、と危惧したわりには、若い店員さんの姿もあった。多くの言葉を飲み込んでの就職でなければいいのだけれど。
莫大な復興予算が「までい館」につぎ込まれたことはすぐわかる。買い物も病院も介護施設も何もかも足りない周辺地域の中で、特別な空気感のある「までい館」。までいな生き方が、風前の灯のように思われる。やがて村の予算でこの建物を維持していかなければならない時が必ず来る。今年も去年も多額の赤字が補てんされていると聞く(飯舘村から運営会社への追加出資)。
までいな生き方が、このような箱もので守られるとは思えない。大切な復興予算が、本当に住民の生活再建に役立っているのか、村民の皆さんに聞きたい気持ちに駆られる。飯舘村の西隣川俣町にある飯舘村民の住む復興住宅からの帰り道。立ち寄った「までい館」訪問の感想である。(Chi)
◆統計から外される避難者 2019年5月29日
今回も、「避難者」としては数えられない、多くの避難者にお会いした
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復興庁は14年8月、避難者を数える全都道府県に対し、「避難者」を「震災をきっかけに住居の移転を行い、その後、前の住居に戻る意思を有するもの」と定義した通知を送った。意思の把握が難しい場合は、家を買うことなどで「避難終了」とみなしてよいという趣旨も記した。
福島県ではこの通知を根拠に、避難先で家を買った人、復興公営住宅や災害公営住宅で暮らす人を「生活が安定した」として「避難者」として数えない。(以上2019.5.22
朝日新聞)
今回も、「避難者」としては数えられない、多くの避難者にお会いした。
「避難者を社会的に隠す行為で、事故の深刻さを覆い隠すことにつながる。避難者数は支援策を考える上での指標の一つ。現状をきちんと反映させるべきだ」(同)との指摘はその通りだと思う。避難者数が少なくなれば、その分だけ原発事故被害が小さく見える。毎回出会う被災者の方々は、「帰りたい」という思いが強い。しかし、そのほとんどは最早避難者にはカウントされない。
現地で聞く「見捨てられている」という被災者の述懐には、心が痛む。私たちは、避難者からは除外されてしまった被災者・避難者の方々に、支援を通して、同情し共生することを続けていきたい。(Kaz)
◆「小高のお年寄りと」 2019年5月29日
ささやかな日常を失った、お年寄りの方々
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豚汁の中のこんにゃくを箸でつまみ上げ「昔、コンニャクイモでこんにゃくを作って、それをリヤカーに積んで売り歩いたことがある」と話し始められる方がいた。シメジも同じようにつまんで「山に入ればきのこ類は何でもとれた」「今は山に入ることもできねぇ、なぁ」と言うと、同じテーブルの方々が皆でうなずかれる。
「こんにゃくを売り歩くのが恥ずかしくて、表通りを避けて、裏道ばっかり歩いていた。全部売るまで帰れなかった」と話を続けられた。豊かとは言えないかつての農家の暮らしぶりがうかがえる。農家の嫁として働きつづけられた方々である。晩年になり、思いがけない原発事故。転々と避難し、そして今、避難先から小高に帰られた。若い家族と一緒に暮らせてようやく成り立つ生活である。
帰りたくても帰れない一人暮らしのお年寄りと比べれば、幸せと言えるのかも知れない。しかし、地域のほとんどが帰っていない淋しい故郷になっている。昼間は家族皆が出払っている家庭も多いようだ。
「食事の用意を今もされてますか」と尋ねると、殆んどの方が首を横に振られた。「作ってくださる方がいていいですね」と話を向けると、厳しい顔をして、無言のまま、また首を振られる方がいた。不用意なことを言ってしまった、と後悔した。食事の支度が若い人に移ったという事は、自分の食べたいものを自分で作る楽しみがなくなったとも言える。
震災前は家族の一員として大いに役立つ仕事をしていておられた方々に違いない。今は、畑仕事も家事もなくなり、話し相手だった近所の友人もいない生活を受け入れて暮らしておられるのだろう。カフェドフクシマのイベントをいつも楽しみに待っていて下さるこれらの方々が、ご自分の足で歩いて来られる間、通い続けたいと思う。(Chi)
◆「東電社員との出会い」 2019年4月9日
被災者の所へ、さまざまな手伝いのために、派遣されている若い東電社員がいます
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カフェドフクシマの活動が始まって間もない頃、葛尾村の仮設住宅(三春町)の集会所で、そこの管理人さんと共に働く青年を紹介されて驚きました。東電の社員だというのです。挨拶する私も戸惑ったのを覚えています。
温度差はあれ、原発被災者の皆さんは、政府や東電に対して怒りや不信感を一様に持っておられるのです。どういういきさつで、東電社員を受け入れたのかは聞きませんでしたが、廃棄する家具や電気器具の搬出、引っ越しの手伝い、草刈、イベントの手伝い等、依頼される仕事は何でも引受けているようでした。最初に会った人は、神奈川県藤沢市に家族をおいて単身赴任の方でした。
隔月に集まりを持っている飯舘自治会でも、自治会行事を手伝ってくれる東電社員が、早い時期から来ていました。たいてい3名で、今回もそうでした。回を重ねるごとに、親しみを覚えるようになっていますが、彼らの態度に変化はなく、いつも控えめで、熱心に働き、何事にも低姿勢です。
住民の皆さんの苦しみや不安の原因は、全て原発事故に由来するわけですから、東電社員にとっては、針のむしろのような場所でしょう。会社から命じられて派遣される時は、どんな気持ちだったろう、と想像してしまいます。
葛尾村の管理人さんから聞いたのですが、「あなたには責任がないから」と言ったら、その社員は泣いたそうです。しかし、責任のあるはずのかつての東電トップ達は、裁判で今なお自らの責任を否定し続けています。若い社員は、その現実も背負って被災者の所に通っている訳です。
矛盾だらけの原発事故被害です。(Chi)
◆仮設住宅後、被災者はどこに? 2019年4月9日
3月末でほとんどの仮設住宅が閉鎖される。
36,700人以上が帰還を果たせずに避難生活を続けている。
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3月末でほとんどの仮設住宅が閉鎖される。福島県では、6市町村で約150世帯(約250人)が残るとみられる。(2019.4.1河北新報)
しかし、被災し避難指示が解除になった市町村民数は、住民票で47,721人、実際に居住しているのはその23.0%である。市町村別では、田村市都路地区81.3%。南相馬市41.4%、楢葉町52.2%、浪江町6.1%、富岡町9.2%、飯舘村18.4%である。(2019.3.7共同通信)。
実際の帰還者は、「公表値よりもっと少ない」と言う避難者も少なくない。 「浪江町の解除済み区域(14,535人)の居住率は、2月末時点で6.3%(910人)に低迷。実質的な帰還者は半数程度とみられる。」(朝日新聞2019.4.7)
36,700人以上が帰還を果たせずに避難生活を続けている。復興住宅は福島県内15市町村に72ヶ所、4,890戸建設される。4,767戸(97%)が完成している。復興住宅住民数は公表されていない。報告者は、約7,500人と推計している。
仮設住宅後の支援は、復興住宅と、県内外に散らばった36,700人ということになる。(Kaz)
◆「浪江町のこと、被爆者手帳のこと」 2019年3月15日
「お金なんかいらない、あの家に帰してほしい」
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今回、私が訪問しました所には、全て浪江町から来た方々がおられました。かつて、6町村が合併しただけあって、福島県内を東西に延びる大きな町です。
大部分が帰還困難区域で帰還者が5.2%ということですから、多くの復興住宅で浪江の方々にお会いするのは当然と言えるでしょう。常磐自動車道が全線開通する前、国道6号線の一部を通る時期がありました。原発事故後に浪江町の市街地を初めて目にした時の衝撃を今でもよく覚えています。
多分そのあたりに住んでおられたのではないかと思われる方が、イベントを終えて帰る私たちを見送りながら「お金なんかいらない、あの家に帰してほしい」とおっしゃったのです。地震の被害はほとんどなく、立派な家々が立ち並び、どこかから人が出て来るような雰囲気でした。しかしどの家も頑丈なバリケードがあり(盗難が頻発したため)、そこで計った線量は、高かったのです。
家が雨漏りするようになり、獣に荒らされ、ついに解体を余儀なくされた方から聞きました。「土地は売れるわけはなく、更地の税金は高くなる。今住んでいる所と二重の税金を何とかならないかと掛け合ってもどこも聞いてくれない」。きっとこのようなケースが無数にあるのではないかと想像します。
ある方のご実家は浪江でも線量の高い場所だったが、避難指示解除になり、親や親類がそこへ戻って生活しているうちに、皆が次々に具合が悪くなって医者にかかった。皆同じ原因不明の血液の病気、という以上どこでも解明できず、大学病院まで行くことになった。やはり同じ結論だったが、放射能との因果関係はない、と断定されたというのです。
原因不明なら、放射能との因果関係も不明、となるのが道理ではないでしょうか。ご実家の心配をしているうちに、被爆者手帳を貰っている人がいる、という話を耳にした、とおっしゃったのですが、それ以上詳しいことは分かりませんでした。
調べてみると、既に2012年に、馬場町長(昨年死去)が「放射線管理手帳」というのを全町民(胎児も含む)に配布しているのです。事故当時、情報不足のため、高濃度の放射能が流れて行った津島(原発から27キロ)に役場機能を移し、多くの住民もそこに一時避難したため、内部被ばくの心配があったのです。内部被ばく検査装置を町で購入し、計測の度に全てこの手帳に記入しました。
この手帳が広島の「被爆者手帳」並みになって、生涯の不安に備えられるよう、馬場町長は法整備を国に要望しました。双葉郡8町村にも協力を訴えましたが、まだ実現していません。手帳を携帯することが、特に若者に将来不利な状況を生まないか、という懸念があるというのです。将来、安心して医療機関にかかり続けられる道筋は必要だと私は思うのですが。(Chi)
◆「仮設住宅廃止後の被災者・寺内塚合仮設住宅の場合」2019年3月15日
ついに3月で終わる。入居者の居住権は認められない。
仮設仲間は原発事故で多くのものを失った皆さんの「無形の資産」
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福島県の応急仮設住宅は、供与期間の延長が何度か繰り返されていたが、帰還困難区域、富岡町、大熊町、双葉町などの例外を除き、ついに今年3月で終わる。入居者の居住権は、“仮設住宅への入居が「反射的利益」として認められているに過ぎず、本人の居住権を主張することが認められない”とされている。出るしかない。
先月の報告にも書いたが、居住者には、自治体から強い退居要請がある。仮設の自治会も解散して支援の受け皿がなくなり、Café de FUKUSHIMAは、この1年余りは、仮設でイベントを開くのに難渋した。これも3月で終わりになる。
住民の方々は、「機会さえあれば集いたい」と思っている。避難者のニーズがあるのにそれに応えられないのは歯がゆい。残念である。避難指示が解除になった市町村の帰還率は、多くても20%程度である。80%が元には戻らず、仮設にも居なくなり、復興住宅も含め他の町での新しい環境(コミュニティ・人間関係)の下で暮らす。
氏素性を知り、数年間苦楽を共にし、話が出来て心を許せる、そういう仮設仲間が懐かしいのは、当然のことである。原発事故で多くのものを失った皆さんにとって、掛け替えのない「無形の資産」と言える。
寺内塚合第2は、皆さんの総意で、この資産を「寺内塚合友の会」として継承することを決めた。会長が井島さん、Café de FUKUSHIMAが協力する。年に2回は集まりたい。恐らく福島県下でもごく希な例だと思う。仮設廃止後どこに集まるかの目途は立った。塚合しかそれが出来なかったのは残念だが、致し方ない。(Kaz)
◆「原発事故と震災関連死」 2019年3月15日
「原発事故後9年」ではあっても、「震災後9年目」ではない。本当の意味で「災害・震災」はまだ続いている。
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原発事故から9年目になった。「津波後9年」「原発事故後9年」ではあっても、「震災後9年目」ではないと、識者は言う。本当の意味で「災害・震災」はまだ続いている。現場で聞く皆さんの声からそれは明白である。
発事故関連のテレビ報道も、この時期だけは多くなる。今年は特にNHKが出色との印象を受けた。一部(2019.3.2、2019.3.6)を紹介する。
福島県内で先月までに震災関連死と認定された人は2267人で、震災と原発事故から8年がたつ今も増えていて、津波などで犠牲となった1605人を大きく上回るようになっています。福島県内で震災と原発事故による避難生活などで死亡する、いわゆる「震災関連死」と認定された人のうち、およそ200人は、避難に伴う転居などの回数が平均で6回以上に上り、死因は、心臓と脳血管の疾患が肺炎と並んで最も多いことがNHKが行ったアンケート調査で分かりました。専門家は将来が見通せない生活が大きなストレスとなり、健康に影響したのではないかと指摘しています。」
福島県立医科大学の前田正治主任教授は「多くの被災者が長い避難生活で生きる意欲を失い、自分の体や心のケアができなくなっている深刻な状況を示している。街の復興は進んでも、心の復興が進んでいない人が多く、『自分が弱い』とか『惨めだ』などと思わずに、助けを求めてほしい」と話しています。
また、自殺した人は11人とおよそ6%に上っていて、アンケートなどからは「ふるさとに戻りたい」とか「生きていてもしかたない」など将来を悲観する発言が増えていたほか、周囲に知り合いがいないことや眠れないことなどに悩んでいたことがわかります。
前田主任教授は、「ふるさとに戻れない中で、転居先になじめずに幻滅するということを繰り返すと、精神的に疲弊してきてうつ病のリスクが高まる。さらに福島では、放射線の影響が遺伝するか不安になったり、アルコール依存症になったりして、生きる希望を失う人が多いのも特徴だ」と話していました。
これらの番組を見て気付いたことを書き留めた。
元の住まいに戻ることが心のエネルギーになっていたが、避難が8年に及び被災者は疲弊している。生きようとする力を奪う。避難による家族の分散・小型化が震災関連死と密接に関連している。前を向けば向くほど絶望しか見えなくなり、それが「フラッシュフォーワード」・未来への恐怖として心身のストレスになる。
Café de FUKUSHIMAの原発被災者支援は、仮設と共に終わりではなく、事故後9年目にして、新たなステージに入った。 (Kaz)
◆「被災者に励まされて」 2019年2月16日
脳こうそくの重い後遺症、失語症、突然の失明…
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葛尾村村営復興住宅を訪問するのは初めてでしたが、その周辺に何カ所かあった仮設住宅へは何度も伺っていましたので、顔見知りの方々にお会いできるのではないかと予想して出かけました。やはり、何人かの方々が声を掛けて下さり、嬉しい再会でした。
イベントの最後の方でアンケート用紙を配っている時にお会いしたその方は、特別に印象深く覚えている人でした。脳梗塞の後遺症で左半身に強い麻痺のある60歳代位の主婦の方です。ある仮設住宅で何度もお会いしたのですが、個人的にお話するのは初めてでした。その方のほうから近況などを次々に話して下さり、だんだん日常生活の苦労話を始められました。
右利きではあっても、左手が全く使えない生活がどんなに大変か、具体的にあれこれ話されました。食事作りは全部自分でやっておられるとのこと。片手で野菜を刻むために、事前に様々な工夫と手順をよく考えて取り組まなくては失敗することなど、思わず引き込まれて聞き入りました。このような体で転々と避難し、狭い不便な仮設住宅で長い期間暮らしてここまで来られました。
今までにも、避難生活のストレスから失語症になられた方、突然失明し全盲の状態で認知症のご主人を介護しておられる方、息子夫婦を亡くし残された思春期の孫3人を仮設で育てておられる80歳代の女性の方など、さまざまな困難の中を懸命に生きておられる方々にお会いしてきました。
原発事故は、このような過酷な試練をも生み出していることに、言葉を失います。それでも慎ましく日々の生活に取り組んでおられる姿に、励まされる思いで帰って来ました。(Chi)
◆「葛尾村のこと」 2019年2月16日
福島原発の北西10数㎞。3月14日に村独自の避難指示を出すに際し、松本村長は「避難指示が空振りになったら俺が責任を取る」と語った。松本村長の大英断は、村民を被曝から救った。
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葛尾村は、阿武隈高地にある山村で福島原発の北西10数㎞。村の北部・東部は浪江町に接している。三春町(三春の滝桜で有名)からも同程度の距離にある。
人口は、1,415人転入者77人を除くと1,338人、その内帰村者は280名(21%)である。避難者は県内に984人(74%)、県外に74人(6%)。県内避難者は、三春町が413人で最も多い。次が郡山市で269人(2019.2.1葛尾村)。三春町には葛尾村の出張所があり、Café
de FUKUSHIMAの支援の際は、いろいろとお世話になっている。
葛尾村の原発避難については、2013年3月17日のNHK番組「福島県葛尾村」~全村避難を決断した村~」があり、DVDとして出版されている。
避難先の仮設住宅などで葛尾村民から伺ったことや、新聞報道などを総合すると、当時の状況は以下の通りである。
14日夜になり、大熊町の東電原発オフサイトセンターから職員が撤退するとの情報が入った。これによって松本村長は「国の指示を待ってはいられない」と判断し、畜産農家の多い村にとっては苦渋の選択となるものの、全村避難を決めた。村民を防災無線で集め、福島市のあづま総合体育館に向かい、さらに15日には会津坂下町に移った。
2号機のドライベントがあったのは、翌3月15日であり、福島第二原発のモニタリングポストMP-4で最初のピークである95.7μSv/hを観測。正門にて約1200μSv/hの高濃度の線量が観測。15日の午前3時に2号機の格納容器内圧力が設計値を、超えている。6時10分に爆発音があり、圧力抑制室内で圧力が低下。正門付近で7時すぎ時点で1941マイクロシーベルトと放射線量が大幅に上昇した。
松本村長らが川西公民館を拠点に不眠不休で対応に当たっている間も、国の対策は後手に回り、村全域が警戒区域・計画的避難区域に指定されたのは、一カ月以上が経過した4月22日だった。
3月14日に村独自の避難指示を出すに際し、松本村長は「避難指示が空振りになったら俺が責任を取る」と語った。松本村長の大英断は、村民を被曝から救った。しかし、当時は報道されなかった。報告者自身がこのことを初めて知ったのは、2015年9月だった。感激したのを覚えている。
松本村長は、“原発事故直後には政府の避難指示がない中で全村民の避難を決断。迅速な対応が評価され、2013年の「グリーンスター賞」に選ばれた。”(2016.11.12福島民友新聞)
グリーンスター賞とは、OCHA(国連人道問題調整機構)とUNEP(国連環境計画)およびグリーンクロスインターナショナルが2007年に創設し、自然災害、大事故、紛争などによる環境危機を阻止することや危機への準備あるいは対応に優れた活動をした人々に贈られる賞。
このように葛尾村民は、素早く避難したことで被曝は低く抑えられたし、避難時の混乱(右往左往)も最小限だった。また、仮設住宅も村民専用で、しかも部落毎の入居だった。首長の避難指示がなくて大混乱したり、指示が遅れて被曝したりした市町村とは違う。葛尾村民を支援していて気付くことは、原発事故に対する憤りが比較的穏やかなことである。(この項2015年9月報告から引用を含む)(Kaz)
◆「3月で仮設住宅が廃止になる」 2019年2月16日
いよいよ来月で廃止になる。大勢の方にお会いしていた時代が懐かしい。もう皆さんに会うことがないのは、ちょっと淋しい気もする。
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これも、過去の報告で何度か触れた。特例を除き、いよいよ来月で廃止になる。大半の仮設住民は退居し、住民はほとんど残っていない。支援イベントで大勢の方にお会いしていた時代が懐かしい。もう皆さんに会うことがないのは、ちょっと淋しい気もする。
最近仮設を出た方から葉書を頂いた。何度か支援訪問をした仮設住宅で自治会長だった方でからである。心境が記されているので、一部を紹介する。
“応急仮設住宅に住む避難者の為に絶大なるいろんな物資を遠方より送り届け… また、お励ましの訪問と一方ならぬ御支援に住民一同大いに助かり感謝で一杯です。…国政(県)からの指示により当応急仮設住宅は平成31年3月末日が供与期限(退居日)との事で、昨年10月末には(仮設住民が)自分だけとなり、新年早々には表記の息子家族の所(宮城県)に同居します。有り難うございました。”
Café de FUKUSHIMAも、仮設でのイベント開催は、2月の寺内塚合が最後になる。今回は「寺内塚合仮設卒業式」にした。自治会長さんによれば、出身者も含め40人ほどが集まるのこと。皆さんは、この集いを最終回にしたくないと考えている。何らかの形で「苦労を共にした仲間との繋がり」を継続することを模索している。
福島県の避難者は、現在42,104人(県内9,323人 県外32,768人)。これには復興住宅住民などは含まれていない。仮設から出れば「復旧・復興」するわけではない。被災者は四散するので、支援は極めて困難になる。だからもう止めるのではなく、原発被災者が「昔のように安らかに暮らせる」ようになるまで、同情し共生し続けたい。(Kaz)
◆「新復興庁」と「震災弱者」 2019年2月16日
“「新復興庁」21年度に…被災地事業終わらず“ 原発被災者も「震災弱者」と思っているのではなかろうか。
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復興庁は、震災と原発事故からの復興のため、総額32兆円の予算を持つ組織である。2年後の2021年3月に廃止される。原発被災の現場にいて、廃止は時期尚早と、過去の報告でも何度か述べてきた。
“「新復興庁」21年度に…被災地事業終わらず“ ”原発事故を受けた福島の復興は当初から10年以上掛かると見込まれていた“という記事を見た(2019.2.11朝日新聞)。当然のことではあるが、取りあえずホッとした。
ところで、同じ記事の中に、“津波被災地の復興事業も、土地のかさ上げや震災弱者らの支援事業などが21年3月までには終わらないことが判明した。”とあった。「震災弱者」とは、どのような方々を指すのだろうか。上から目線を感じる。原発被災者も「震災弱者」と思っているのではなかろうか。原発事故で故郷を喪失した被災者の「復興」は、その根底に「震災弱者」を生じさせた国と電力会社の加害者目線があるべきではないだろうか。(Kaz)
◆「仲町児童センターのこと」 2019年1月12日
小屋の中の砂場で遊ぶこどもたち
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仲町児童センターで直接イベントに関わるのは、私自身は多分初めてだと思いますが、何度か用があって訪問しています。立派な大きな施設、広い庭、横浜の学童保育では見られないほど整った所です。
数年前、名古屋岩の上教会のイベント(ここの子供たちを安全な外遊びに連れ出した)が終わって数日後、ごあいさつで初めて伺った時の強烈な印象が今も私の中にあります。当時、2回の除染をしているというのに、隣接の公園のモニタリングポストは、0.2μSvを指していて、学校の校庭ほどある庭にも時間制限をして遊んでいる状況でした。真新しい小さな丸太小屋のような建物が庭の隅にあり、のぞいたら、砂場でした。その小さな屋内の砂場で低学年の子が何人か遊んでいました。
その砂場は横浜のNPOからの寄付だと聞きました。10平米を超えると建物として扱われ、税金の対象にもなることから、9平米ちょっとに作って下さったとのこと。砂は特殊(高級)なものが入れてあるそうです。寄贈者の心配りを感じました。
児童館に接して住宅が立ち並んでいるのですが、一目で空き家とわかる立派な家々がすぐ見つかりました。児童数が半数近くになっているわけですから、こういう家があちこちにあるのでしょう。
多くの友達と別れ、寂しくなった町で、今日出会った子供たちは頑張って暮らしてきました。 震災時、まだ生まれていなかった子、赤ちゃんだった子がほとんどですから、記憶のある子は少ないかも知れません。けれども乳幼児期から稀なる経験をしてきたのではないかと想像します。
こういう場所で子育てをしなければならない親御さんへは、掛ける言葉も見つかりません。元気いっぱいの姿を見せてくれた子供たち!どうか健やかに育ってください。(Chi)
◆「南相馬市の子どもたち」 2019年1月12日
生徒数は48%減少… 南相馬市に限ったことでない。生まれ育った町村を離れざるを得なかった多数の子どもたちは、今どこに…
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南相馬市教育委員会の資料(2018年)によれば、市内児童生徒数の推移は、以下の通りである。 市内小学校の児童数は、震災前である平成22年度は4,028人。平成30年度は2,090人と1,938人(約48%減)。
中学校の生徒数は、平成22年度は1,985人。平成30年は1,254人と731人減少(約37%減)。 (今回訪問の)石神第2小学校の場合は、468名から270名(44%減)になっている。
(10月訪問の)高平小学校の場合は、193名から112名(42%減)になっている。 (避難指示解除の)小高小は、382名から50名(87%)減である。(引用終わり)
児童生徒の減少は、南相馬市に限ったことでない。深刻な放射能汚染があった福島県内5町村(浪江町・富岡町・葛尾村・飯舘村・川俣町山木屋地区)では、事故前には児童生徒(小中学生)4,002人だったが、2019年度は109人(2.7%)になる。しかも前年度(2018年・140人)に較べても31人(22%)減少する。(2019.1.8
河北新報 右の表を含む)
原発事故の影響は、ここにも色濃く残っている。間もなく事故から8年目になるが、お金では取り返しがつかないのである。人口減少・高齢化は、日本全体のことで、社会の劣化が言われている。原発事故は、放射能汚染地帯でそれが劇的に起こっている。
統計上の数字は措くとしても、生まれ育った町村を離れざるを得なかった多数の子どもたちは、今どこでどうしているのだろうか、(Kaz)
◆「常磐自動車道」2018年12月22日
常磐自動車道とその周辺に今、起こっていること
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毎月、横浜とサマリタンハウスを往復する時に使う常磐自動車道は通い慣れた道です。この道から見える風景や道路そのものが最近大きく変化しています。まず、フレコンバッグの仮々置き場が毎月通るたびに増えています。浪江町のその場所は、端が分からないくらいの広がりです。高速道路から見える範囲でのことですから、実態は予想がつきません。
そして、除染された田畑に、太陽光発電のパネルが設置され、これも急速に増えています。“見渡す限り”という感じの所もあり、震災前には想像も出来なかった風景でしょう。
汚染土運搬車も増えて、帰り道にはたくさんの車両とすれ違います。この車の後ろは大抵渋滞になっています。この状態が何年(何十年?)も続くことから、道路複線化の工事が急ピッチで進められています。
工事現場は線量の高い場所が多いのですが、作業員はマスクをしているだけです。また、それぞれの現場には、フレコンバッグが大量に運び込まれています。道路を作るのに再利用するためです。一定の線量以下の土だそうですが、本当に絶対安全なのでしょうか。
汚染土運搬車は、タイヤを始め車両そのものの汚染も十分考えられます。その車が、これから長い年月、多数走り続けるわけです。すでに車両の横転事故も報告されています。常磐自動車道は一般車両にとって、危険で心配な高速道路になるのではないかと危惧しています。もっと言えば、こういう諸々の状態に馴れてしまうことの方がもっと危惧されることなのかもしれません。(Chi)
◆「復興期限2020年度と原発被災者の支援」 2018年12月22日
復興庁による東日本大震災の復興期限は、2020年度末である。受難者一人一人の現実をよく知った上で、支援を続けてももらいたい。
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復興庁による東日本大震災の復興期限は、2020年度末である。国の復興施策を担う復興庁は、10年間の時限が来て、1021年3月末で廃止される。残りあと2年3ヶ月になった。
予算を投入すれば出来る住宅建設や土地・施設の整備などは概ね90%以上進んでいるが、原発事故避難指示解除地域への住民の帰還・居住率は、5%~81%である。原発被災者は、除染が済んでも帰らない・帰れない。被災者は、残り2年3ヶ月で「復興」するとは、とても思えない。
「自主避難、東電の1600万円賠償確定 最高裁で初か」(朝日新聞 2018.12.17)(以下引用文) 東京電力福島第一原発の事故をめぐり、福島県郡山市から自主避難した元会社経営者の男性と妻子が賠償を求めた訴訟で、東電に計約1600万円の支払いを命じた二審判決が確定した。最高裁第一小法廷(木沢克之裁判長)が13日付の決定で、男性側と東電側の上告をそれぞれ退けた。(引用終わり)
3.11から7年後の最高裁での決着である。この他にもたくさん裁判が続いている。 被災者・避難者を支援する国の関与(予算措置)が、11年目で不要になるとはとても思えないし、原発事故で失ったものを取り戻し、皆さんの心に安らぎが戻る(心の恢復・復興)には、未だ未だ助けが必要だと思う。被災者・避難者が存在するのは、原発を推進した国の責任である。受難者一人一人の現実をよく知った上で、支援を続けてももらいたい。
(Kaz)
◆「生きがい」2018年11月17日
原発事故は、住民から多くのかけがえのないものを奪った。「生きがい」はその最たるもの
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隔月に持っている飯館自治会の集まりは、今月はお休みですが、飯館自治会の事務所に遠藤さんご夫妻に行って頂きました。アロマセラピーと包丁研ぎをして頂くためです。午前のイベントを終えてから私たちも同行しました。事務所にはいつものメンバー数名がすでに来ておられ、順次マッサージの申し込みをしておられる方々が来られました。沢山のお茶菓子とお茶が用意されていて、しばらく皆さんとおしゃべりを楽しみました。
ある方が、「私は、石川さんに救われているの」とおっしゃったのです。イベントを楽しんでいるお礼をおっしゃって下さったのだと思いました。でも、その後の会話でそういう意味だけではないことがわかりました。
その方は、1年ほど前から、豚汁に付け合せるお漬け物を全部お一人で引き受けて作って下さっています。ご自分から申し出て下さったのです。周りの方が、「この方はお漬け物の神様なのよ」と紹介してくださった事もあります。飯館村におられる頃は、ご自分の畑で作った野菜で、様々な漬け物を作って、道の駅で販売しておられたとのことでした。その方の口から何度も「漬け物作りは私の生きがいなの」と聞いたことがあります。
飯館には帰らない決心をしておられるようです。「帰って何をするの?」と大真面目な顔で私におっしゃいました。除染された畑を元のような肥えた畑にするには、大変な手間がかかるようです。たとえそう出来て野菜を作ることが出来ても、飯館の野菜が売れるとは思えない、ということなのです。農業が出来ない飯館に帰って「何をするの?」とおっしゃりたかったのです。
お米も野菜も買ったことがない生活から、突然農作業が取り上げられ、その方の「生きがい」も取り上げられてしまいました。今、借り上げ住宅の側に畑を借り、そこで作った野菜で毎回大量の漬け物を作って持って来て下さっています。そのことが、「救われている」とおっしゃった意味ではないかと思ったのです。
原発事故は、住民から多くのかけがえのないものを奪いました。「生きがい」はその最たるものではないでしょうか。(Chi)
◆「常磐高速道路から見る被災地の風景」 2018年11月17日
原発周辺町村は、背高泡立草で黄金色です。道路際には除染廃棄物フレコンバッグが積み上げられています。
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福島県の田畑は、今黄金色です。刈り入れ前の田んぼは、稲穂が黄金色。原発周辺町村は、背高泡立草で黄金色、そこには所々木々も混じっています。先祖代々から伝わり、丹精込めて世話をし、生業を支えた田畑の変わり果てた姿です。
帰還困難区域の除染(帰還困難区域全体の約8%)や家屋の解体が一部始まり、常磐道からもその様子を目にします。高速道路は、中間貯蔵施設に除染廃棄物(フレコンバック)を運ぶ多数の車で所々渋滞し、道路際には除染廃棄物フレコンバッグが積み上げられています。これらは、常磐高速道路の拡張工事で道路に埋められます。マスコミは伝えませんが、道路を走るだけで見えてくる被災地の様子です。
(Kaz)
◆「痛ましい「望郷」の念」 2018年10月16日
「泣いてもいいですか、私も泣きたいんです」
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「浪江わが故郷」(〽がんばっぺ浪江)という歌がDVDになっています。浪江から猪苗代に避難していた平本さん(町会議員、花屋を手広く経営されていた)が、避難先で作詞して作られた短い曲のDVDです。曲の背景に浪江の美しい風景写真がたくさん配置され、いずれ戻れるようになるまでお互いに頑張ろう、という内容の歌です。
浪江の仮設住宅(多くは二本松にあった)を訪問した時、イベントが始まる前によくこれを流しました。皆さんはスクリーンに釘付けになり、良く知っている場所の写真を指差しながら、しばらく話に花が咲きました。Café
de FUKUSHIMAの支援活動が始まって間もない頃のことです。
1年ほど前、郡山にある浪江町が管理する施設に伺いました。仮設住宅や借り上げ住宅を出て、郡山に家を持たれた方々などが、定期的に集まっておられました。久しぶりに例のDVDを流しました。
すると隣の人、前に座っている方がすすり泣きをはじめられたのです。狭くて不便な仮設住宅から脱出でき、落ち着いた生活を取り戻されたかに見受けられる方々でした。地域に溶け込めなくて淋しい、浪江に戻れないことがどうしても釈然としない、と消え入るような声で話されたのです。
今回、4名の参加者でイベントを行った復興住宅でも、浪江からの方もおられるのがわかり、あのDVDを合間に入れました。黙って見ておられたその方に、郡山での出来事を短くお話しました。すると「そうですか、泣いてもいいですか、私も泣きたいんです。」とおっしゃってハラハラと涙を流されました。
仮設に住んでおられる時には、故郷に戻れる可能性を秘めていたのかもしれません。しかし今は、故郷とは別のところで暮らす決断をして終の棲家で暮らし始められたわけです。
けれどもこの決断は、「した」というより、「させられた」ということがよくわかりました。「浪江に帰りたい」という気持ちは、少しも薄れていないのです。(Chi)
◆「仮設生活の楽しさを思い出した。」 2018年10月16日
たくさんの被災者にそれぞれの「仮設住宅時代」がある。長い人で7年余りである。仮設住宅のイベントに「元住民」が、まるで同窓会のように大勢集まってくる。
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たくさんの被災者にそれぞれの「仮設住宅時代」がある。長い人で7年余りである。しかしそれも、ほとんどは来年3月に終局を迎える。「仮設は仮設だ」と語った住民もいた。その通りである。
今回、イベントに参加したある仮設出身の婦人が、「仮設生活の楽しさを思い出した。」と語るのを聞いた。思い掛けないことで、「そうなんだ!」と思った。仮設は、「トイレの戸を開けると居間から中が見える」「隣の家の新聞紙をめくる音が聞こえる」ほど劣悪な住居だったのに、である。
突然の原発事故で、家族・家・故郷・友人・生業・コミュニティを奪われた方々が、数ヶ月間の流浪の果てに仮設に入った。住民同士は同じ苦難を経験した「戦友」のようなものだったと思う。肩を寄せ合って生活していた。そして、皆には、「ここに住むのは、取りあえず。」「いずれ戻れる」「時期が来れば元のように家族と一緒に住める」という希望があった。多くの方にとってこの7年余りは、「元には戻れないのだ」と望みを捨てなければならない期間だった。大雑把に言って、私が支援している市町村民で元に戻ったのは、2割以下である。大部分は仮設を出て別の町で暮らしている。そこでは、地域社会に溶け込めず、孤立している。差別もある。家族と離ればなれのままも人も多い。
そのような被災者の皆さんにとって、「仮設生活」は、よい思い出として脳裏に刻まれている「よすが」と言えるかも知れない。だから、仮設住宅のイベントに「元住民」が、まるで同窓会のように大勢集まってくる。仲間との再会は、「一服の清涼剤」だ。
「復旧」「復興」が、お題目のように語られている。復興に当たる関係者が、「マラソンで言えば30㎞(地点)」と言う。私が原発被災者支援していると聞くと、「復旧・復興は終わったのでは」と言う人もある。被災者が求めて止まない本当の「復旧」や「復興」とは、「原発事故以前の生活」を取り戻すことである。これは、被災者の「権利」であるし、事故を起こした側の「義務」である。
既に、「7年半の年月」「家族の絆」「故郷」などを失ってしまった被災者にとって、「復旧」「復興」は、見果てぬ夢である。今回聞いた「何をやっても楽しいと思わない。うれしいこともない。ただ日々を暮らしている。」という復興住宅に住む避難者の心境は、彼らの現状を如実に物語っている。原発事故の悲惨さとは、斯くの如しである。(Kaz)
◆「フクシマとチェルノブイリ」 2018年9月15日
「震災後、初めて本音を話せたし、聴いてもらえた」
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震災後、フクシマとチェルノブイリの間で交流が始まり、続けられているのを知りました。「きのう、チェルノブイリの人たちが来て、話を聞いたんだ。わしらもああいう風にしてもらいたかったなぁ」。数か月前の仮設訪問時に聞いた話です。
つまりチェルノブイリが事故後、自分たちの村(福島)の線量よりはるかに低い所も居住禁止にして、離れた所に大きな団地を作り、住民を村ごと強制的に移住させたことを言っているようでした。
フクシマの被災者にとって、帰りたくてたまらない村ではあるけれど、いざ除染が済んだので帰村するようにと言われると、迷いも出ていたのです。除染の不十分さを皆よく知っていますし、村内に大量に積み上げられているフレコンバッグがいつ搬出されるかもわかりません。
従って若い人や子供のいる家族はほとんど帰って来られませんから、以前の家族と一緒に住むことを諦めての帰村になります。村内に若い人がいない中で老いていく不安があり、チェルノブイリが羨ましくなったのかもしれません。
震災時に乳幼児を抱えていた方や、震災後間もなく出産したお母さん方が、子供連れでチェルノブイリを訪問した時の様子を以前TVで見ました。「震災後、初めて本音を話せたし、聴いてもらえた」と泣いておられた若いお母さん。フクシマの復興の妨げになるという理由で、放射能の心配や不安を声に出して言いにくい雰囲気がフクシマにはあります。
当時同じような立場だったチェルノブイリのお母さんたちに共感を持って聴いて貰えて、どんなにか胸のつかえが取れたことでしょう。フクシマのお母さん方の不安をこれから誰が受け止めてあげられるのでしょうか。
ある村の仮設集会所の管理人さんが「私たちが今、チェルノブイリに関心を持つのは、30年後の私達や村がどうなっているかを知りたいから」とお話しくださいました。チェルノブイリは今も放射能を制御できず、事故後から時間が止まったような状態だそうです。
フクシマへの支援に終わりはないのではないかと思っています。決して忘れてはいけない場所です。(Chi)
◆「原発被災者・避難者の支援とCafé de FUKUSHIMA」2018年9月15日
「仮設住宅住民の減少」=「被災者支援の終了」ではない。何とかして「仮設後の被災者」に出会い、少しでも力になりたい。
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「仮設住宅住民の減少」=「被災者支援の終了」ではない。
ボランティア(団体)の動向を仄聞すると、これがイコールになっている。「事故が風化し、人や資金が集まらない」「自治会が解散し、受け皿がなくなった」「イベントに人が集まらない」というのが理由である。ボランティアの激減は、仮設住民が一番感じている。
しかし、「仮設を去ること」は、「劣悪な住環境からの脱出」以外に被災者に何をもたらすのだろうか?
今回は、全てが仮設避難者以外を対象にした。居場所は変わっても変わらない被災者の苦境は、文中の「今回皆さんから伺ったこと」を見れば明らかである。
支援者として被災者から聞いた「仮設後の苦難」とは、次のようなものである。
「家族や地域との分断の固定・回復の諦め」
「新しい住環境での疎外」「虐め」
「賠償金や住居提供の打ち切りによる経済的不安」
「戻ったが近所に話し相手がいない」
「復旧に要する体力の衰えや、過疎地に帰還した後の交通や、介護の問題」
これらの状況を知るだけに、Café de FUKUSHIMAは、「同情と共生」を終わらせるわけにはいかない。何とかして「仮設後の被災者」に出会い、少しでも力になりたい。
変わらず「支援を支援」してくださっている皆さまを始め、数は減ったが未だ被災地で活動しているカリタス南相馬などの支援団体、帰還先の社協などと協力し、被災者・避難者に出会えるように努力し続けたい。(Kaz)
◆「留守宅」 2018年8月10日
近隣の方々に支えられて
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毎月、夫は10日余り、私は1週間、横浜の自宅を留守にする生活になって3年半になります。
自宅の隣近所の方々は高齢の方が多く、70歳を過ぎた私たちに「石川さんのような若い方がこの町内にいて下さって心強い」とおっしゃるのです。
ですから毎月留守をするとき、心苦しく、ごめんなさいね、という気持ちで出てまいります。特に、落ち葉の季節や今の時期のように暑くて庭の水やりが欠かせないときには、ご迷惑をお掛けすることにもなります。1回だけですが、雪かきが必要な時もありました。これは私のなかで大きな気持ちの負担になっていました。
先日のことです。「いつもお世話をかけて申し訳ない」と、お向かいさんとお隣の方にお話しする機会がありました。するとお向かいさん曰く「石川さん、私は80歳を過ぎて福島へ行けと言われても行けないの。でも、お宅の前を掃いたり、水やりなら出来るの。だから何も気にしないで」
そして90歳のお隣の方は「そうそう、石川さんは町内の代表で行って貰っているんだから」と。涙が出るほど嬉しい気持ちでした。
私達との日常的な立ち話で、この方々は、福島の現状をよく御存じのこともあるのですが、有難いと心から思いました。また、サマリタンハウスの隣で野菜を作っておられる方は、私たちが滞在している間中、新鮮な野菜を届けて下さり、帰るときには段ボールでどっさり持たせてくださいます。
神様は、使命を与えられる時、使命を果たすためにこのように周囲を整えて下さり、必要な力も与えて下さるお方です。(Chi)
◆今も続く原発事故の被害、原発周辺市町村住民の「うつ病」「失業」 2018年8月10日
原発周辺浜通り町村1万名の調査結果があります。うつ病傾向を示す回答者の56.5%です。今回のイベント参加者被災者に当てはめれば、189名中107名に相当します。
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原発周辺浜通り町村1万名の調査結果(*)があります。うつ病傾向を示す回答者の56.5%です。今回のイベント参加者被災者に当てはめれば、189名中107名に相当します。
*「被災地・被災者の現状(福島大学2月発表)」河北新報2018.2.19
調査は昨年2~3月、広野町を除く大熊、双葉、浪江各町など郡内7町村の全2万6582世帯に郵送で実施。37.9%に当たる1万81世帯が回答した。
精神的な健康状態は世界保健機関(WHO)の指標を基に、最近2週間「明るく楽しい気分で過ごした」「ぐっすりと休め気持ちよく目覚めた」など5項目を6段階で選んでもらい点数化した。
うつ病傾向を示す13点未満が回答者の56.5%に上った。2011年秋の前回調査の74.3%よりは17.8ポイント減った。
調査を主導した丹波史紀客員准教授(社会福祉論)は「一定の改善は見られるが依然として高い。原発事故からの時間経過で、被害実態が伝わらなくなっているという苦悩があるのかもしれない」と分析した。
「原発事故からの時間経過で、被害実態が伝わらなくなっているという苦悩」は、換言すれば、「被害や被害者の存在が忘れられていることの苦悩」ではないかと思います。「時間の経過と共に増す苦悩」もあるのです。
また、この調査によれば、15~64歳の32%が「無職」とのことです。
就業状況では、昨年9月の中間報告で生産年齢(15~64歳)の回答者の31.9%に達すると公表していた「無職」の詳細を発表。事故前の職業別で「正規の職員・従業員」の33.1%が、「パート・アルバイト」の59.7%がそれぞれ無職になっていた。(同新聞)
「うつ病」や「失業」は、今も続く被災地・被災者の原発事故被害を、如実に語っています。(Kaz)
◆「フレコンバッグ」 2018年7月18日
天文学的な数…汚染はいったいどこまで?
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フレコンバック(フレキシブルコンテナバック)は、放射能に汚染された土やごみ等を入れた黒い袋です。1つ約2トン。田んぼや畑の中に積み上げてあり、大熊町・双葉町の中間貯蔵所(仮置き場)へ搬送されるのを待っています。放射線源を集めたものですから、線量計で測れば、高い数値が出るはずです。
毎回の往復で、常磐自動車道から見える所だけでも、フレコンバッグは今も増え続けています。飯舘村では120万袋という数ですから、全体では天文学的数でしょう。「仮々置き場」が、やがて「仮置き場」になるのでは、と地元民は心配しています。
この黒い袋が見える景色の中への帰還を、今行政が推し進めているのです。放射能は除去などできず、「除染」と言う言葉は欺瞞だと私には思えます。
大変驚いた光景を郡山近くで目撃しました。復興住宅を訪問した時です。ほとんど敷地内と言っていいほどの場所に、このフレコンバッグが数十個並んでいたのです。1個だけでも存在感のある袋です。まさかと思い、住民の方に尋ねると、やはりそうでした。「もって行く所がないから仕方がない」ということです。
同様のことがあちこちにあり、「見慣れた光景」になっているようです。避難先であり、終の棲家ともなる復興住宅のある場所です。福島県全体とその周辺地域は、広く「放射能に汚染された場所」なのだと改めて思いました。
原発事故からの復旧復興事業とは、この現実を胸に収め、諦める他ない住民の上に進められているのだと私は思っています。(Chi)
◆「福島の自然」 2018年6月19日
緑の塊のような所へ来ると… 落ち着きません。
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前回横浜へ戻る頃、田んぼは水が張ってあっただけだったのが、今回来てみると、見事に全て田植が済んでいました。 これからは、毎月こちらへ来るたびに、稲の成長を見ることになるでしょう。
そして秋になり稲刈り寸前の田んぼは、菜の花畑と間違えたことがあるくらい一面黄色に染まります。その周りには、まるで縁取りをしたように真っ赤な彼岸花が咲きます。私にとっては思いがけない風景で、感激しました。
山々も、春夏秋冬で様々に色が変わります。山の多いこの地方の美しさを車の窓から眺めます。今は、浅い緑の木々が深い緑色に変わりつつあります。
ふつうなら、このような自然の風景は、人々の心を癒すはずのものですが、福島では違います。山林の除染は手付かずです。
緑の塊のような所へ来ると、何となく不気味に思ってしまい、落ち着きません。そして、悲しく悔しい思いになります。何年通っても同じ思いです。(Chi)
◆「浪江町の被災者」 2018年6月19日
原発の爆発で生じた放射性プルーム(放射性雲)が、浪江町の細長い地形に沿うように流れた。原発立地地元自治体ではないが、「戻れない・戻る気はない」住民の割合が56%と、原発地元並みに高い。
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浪江町は、登録住民(21,434名)の内20,588人が今も避難中である。県内に14,330人、県外に6,258人で、町内居住者(帰還者)は、747人(3.5%)。福島市への避難者は、2,719名である(2018.5.31
浪江町)。
原発の爆発で生じた放射性プルーム(放射性雲)が、浪江町の細長い地形に沿うように流れた。原発から離れた地域でも線量が高く、帰還困難区域になっている。原発立地地元自治体ではないが、「戻れない・戻る気はない」住民の割合が56%と、原発地元並みに高い。
町民15,700人・6,700世帯(町民の7割以上)が慰謝料増額を求め、ADR(裁判外紛争解決手続)の集団申し立てをしていたが、東京電力の和解案拒否により、仲介手続きは打ち切りになった(4月)。ここまで申し立てから既に5年経過している。町民側は「秋にも集団提訴」(2018.5.28
河北新報)とのことである。今年2月末まで846名の方が亡くなられている。今度のイベントでは、「裁判になったら解決が更に長引いて、生きている内に救済されない」と語る避難者に出会った。(Kaz)
◆「もう一つの出会い」2018年5月19日
被災者を支える方々との尊い出会い
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今回9回目の訪問となった「元気塾」で、初めてお目にかかる職員の方がおられ、お茶の時間に皆さんとのお話にその方も加わって下さいました。 聞けば、津波で家が流され、ご家族をふたり亡くされたということです。
今、復興住宅で暮らしておられます。多かれ少なかれ放射能の不安もあったはずです。ここで働いておられる方々のお年寄りの方への接し方にいつも敬服していますが、職員の方々も被災者であるということと切り離せないでしょう。
しかし誰もがそうなれるとは限りません。 仮設住宅寺内塚合第2の訪問でも、自治会長さんの深い人柄に触れました。仮設内外で暮らす住民の方々への心配りの見事さに圧倒されました。しかし口数少なく多くを語られません。
素晴らしいこのような方々との多くの出会いに感謝しています。神様からのプレゼントだと思っています。(Chi)
◆「飯舘村のこと」 2018年4月16日
原発事故後、飯舘村に何がおこったのか… 放射線量の隠蔽・改ざん
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「原発にふるさとを奪われて」(長谷川健一著 宝島社刊)は、伊達東仮設住宅の管理人であり、著者の奥さんでもある花子さんから紹介されて読む機会を得ました。
今回で5回目の訪問になった同仮設住宅に、初めて伺ったときです。 この本は、原発事故直後から仮設入居までに、飯舘村でどんなことが起こったのかをつぶさに知る機会となりました。
事故直後、海に向かって吹いていた風が夕方から北西の風に変わり、30キロ圏外の飯舘村目がけて放射能が流れてきたのです。
高濃度の放射能に汚染され続けましたが、全村避難となったのは5月に入ってからでした。
放射線量を隠蔽し改ざんされる中で、線量計持参で取材にやって来た記者から事実を知らされた長谷川さんの悪戦苦闘がつづられています。今でも胸痛む本であり、憤りが湧いてきます。(Chi)
◆「統計上の被災者・避難者」 2018年3月10日
支援活動は、動機を「統計」に依拠しないが、被災者の実態を皆さんに伝えることは、責任の一端だと思う。かいつまんで報告する。
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「良きサマリヤ人」に倣うCafé de FUKUSHIMAの支援活動は、動機を「統計」に依拠しないが、被災者の実態を皆さんに伝えることは、責任の一端だと思う。かいつまんで報告する。
調査対象:復興住宅入居者354世帯(出典:「復興公営住宅入居者の生活実態に関する調査」西田奈保子他)
・世帯人員数の減少(2011年3月→2017年1月):2.7人→1.7人
・一人暮らし世帯割合の増加(同):29%→50%
・団地周辺の方とどのようなお付き合いをされているか:「交流はない」が51%
・近所付き合いの震災前との比較:「かなり減った」が62%
・今後もこの団地で暮らしていく予定ですか:「今後もこの団地で暮らしていく」が47%
・住民票を今住んでいる市町村に移すことを検討しているか:
「住民票を移すことは考えていない」が65%
・寝付けなかったり、途中で目が覚めたりすることが多い:「よくある」が42%
・震災によって休職・失業・退職し、現在も仕事はしていない:43%
・(震災後の生活)自分のしていることに生き甲斐を感じること:
「かなり減った」が 41%
・(震災後の生活)自分の将来は明るいと感じること:「かなり減った」が 45%(Kaz)
◆「被災地としての南相馬市」 2018年1月14日
南相馬市は、原発事故の5年前に原町市と相馬郡小高町・鹿島町が合併した新しい市である。原発からの距離は、10㎞以下から約40㎞の範囲に広がり、面積の70%ほどが原発から30㎞圏にある。
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今回は、6回全てが南相馬市での支援だった。
南相馬市は、2006年(原発事故の5年前)に原町市と相馬郡小高町・鹿島町が合併した新しい市である。福島第一原発からの距離は、10㎞以下から約40㎞の範囲に広がり、面積の70%ほどが原発から30㎞圏にある。
従って、同じ市でありながら、放射能被害や避難指示、受けた賠償金に大きな差がある。それを「市」で一括りする。市民の間には各様の思いが交錯している。例えば、「小高は南相馬市にならない方が良かった。小高町のままだったら、全域が避難地域であり、行政としてまとまった対応が出来た」と語る人もいる。「小高は見捨てられている」とか「市は小高の面倒を見すぎる」と言う人にも会った。南相馬市の被災者・避難者には、他の町村とはまた違った困難がある。支援者としても留意すべきことである。
因みに、浪江町・葛尾村・飯舘村などの被災地は、仮設住宅を支援(訪問)するのに町村役場に窓口があり、仲介を受けられる。南相馬市は、そうではない。
南相馬市は、2011年3月15日時点で約5万人が避難した。同年7月時点の避難者は、約32,000人、同年10月時点で24,736人だった。原発事故後、人口が71,561人から57,317人になった。14,244人、20%の減少である(2017.12.31現在)。
先述した社協からの礼状にあった「家族形態が複雑多様化し、震災の影響も未だ色濃く残る」という通りである。一世帯あたりの人口は、2010年の3.0人から、2016年には2.2人になった。家族の分断と独居が増えた。人を支えるのは、「行政」「地域社会」「家族」の3つといわれるが、原発事故により失われたものが多い。
Café de FUKUSHIMAとしては、これからも南相馬市の被災者・避難者をきめ細かく尋ね求め、出会う機会をつくり出していきたい。(Kaz)
◆「支援先としての仮設住宅」 2017年12月13日
「イベントは久し振りなので、何人来るか分からない」 「支援を必要とする人がいる限り、最後の一人まで支援する」(吉野復興大臣発言)は、我々支援する側にも必要な覚悟である。
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「イベントは久し振りなので、何人来るか分からない」。今回ある仮設で、いつもの参加者数は?とお尋ねした時の答えである。どこも同じだと思う。
福島県発表によれば、福島県の仮設住宅入居者数は4,498名である(11月末現在)。入居率で言えば、20%を下回っている。自治会が組織されなくなった仮設住宅も多く、支援のイベント開催は難しくなりつつある。訪問する支援者(ボランティア)がほとんど無くなった理由の一つであろう。
しかし、仮設住民が居なくなったわけではない。「いつまでもここ(仮設)に居て、子供らに恥をかかせてはならない。」と述懐した老婦人の心情は、仮設に残る方々にも共通しているだろう。にもかかわらず、退居を迫られながらも、「出たくても出られない」方々がいる。換言すれば、「支援を、より必要としている方々」が残っている。
このような現況下で、被災者・避難者の支援を続けるには、同情や共生の意思を前提にして、今までとは違った努力と工夫が要る。
例えば、葛尾村は、事故前の住民1,567人中、帰還者は169人(10.8%)である。しかし、三春町にある葛尾村の仮設住宅は、11ヶ所あるが、入居者が減って単独ではイベントが開けない。Café
de FUKUSHIMAは、関係先と調整し、「三春町に避難している葛尾村民のイベント」と形を変えて来年2月に開催する。
また、南相馬市の牛越仮設には、4つの自治会があるが、今後は幾つかをまとめて開く予定である。
12月や1月の訪問では、なるべく訪問(支援)先自治会との共同開催になるようにと、声を掛けさせて頂いている。自治・自助を触発することが出来れば、単なる支援から半歩前進する。
「支援を必要とする人がいる限り、最後の一人まで支援する」(今年4月福島県選出吉野正芳復興大臣の就任会見での発言)は、我々支援する側にも必要な覚悟である。(Kaz)
◆「被災者・避難者を囲む「溝」」 2017年11月24日
地域社会との溝・被災者間の溝、溝を克服しないと復旧・復興はない
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被災者・避難者と地域社会を隔てる溝
帰還困難区域の方々を始め、帰還を断念した被災者が新居を建てるなどして県内各地に住んでおられる。マスコミは滅多に報道しないが、その地で決して歓迎されていないという事例をたくさん耳にしている。曰く、「原発を誘致した地元が悪い」「多額の賠償金を手にしているではないか。私たちは放射能の害を受けているのに何ももらっていない。」「賠償金で遊んで暮らしている」等々、枚挙に暇が無い。
被災者・避難者間の溝
更に、同じ被災者間でも「賠償金格差」による溝もある。地図上に引かれた線1本がもたらす見えない溝である。中には誤解もあるが、避難者・被災者とそうでない県民と間に、原発由来の深刻な分断がある。原発再稼働を認めるか否か、「立地地元市町村」と「事故の影響を受ける市町村」の間の溝と似ている。
被災者・避難者にとって、溝を克服しないと復旧・復興はない
一方、やむを得ず故郷を離れ、居を移した被災者が、その先の地域社会に受け入れられなければ、「復旧・復興」は到底進まない。今回は、イベントに地域住民の方が多数参加された。被災者・避難者の「復興」にとって、復興住宅内は元より、地域内でのコミュニティ作りも欠かせない。みんぷくの努力もあって、避難者と地域住民が共に集う貴重な場が出来ている。良き先例になって欲しいし、Café
de FUKUSHIMAとしてもこれに寄与していきたい。 (Kaz)
◆「避難者・被災者の様子(アンケートなどから)」2017年10月29日
幾らお金を注ぎ込んでも帰還者が少ないのは、これら失ったものの「復旧・復興」になっていないからではないか、多くの被災者が語る心情を聞くと、そう思う。
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被災地の大部分が避難指示解除になってから1年半になった。元の市町村に戻ったのは概ね10%でしかない。10万人を超える被災者が、未だに住む場所すら「復旧・復興」はしていない。
考えてみれば、人の生活(人生)は、住む土地・家族・生業・環境・コミュニティ・生活インフラ(買い物・医療・介護)がなどから成り立っている。これらは先祖代々がその土地で、長い年月を掛けて、血や汗や涙で紡ぎ続け成熟し、守り継いだものである。原発事故は、一瞬にしてこれらを破壊した。
ただ単に、除染して放射線量が下がったから「復旧した」とはならない。勿論某大臣が括ったように「金目の問題」でもない。箱物も、賠償金や補償金も、それで回復できるのは、ごく一部に過ぎない。
「そこで生まれ育ち今まで住んでいた」方々の古里への思いは、強い。私のように東京や横浜に多い地方出身者には理解が及ばない。そこで生まれ、祖父が木を植えて建てた家に住み、結婚式を挙げた家に、3世代4世代が同居し助け合って暮らしていた。先祖代々の墓があり、近所には幼なじみがいる古里である。これを失ったことに同情しないでは、原発被災者避難者に寄り添うことができない。
国や市町村が幾らお金を注ぎ込んでも帰還者が少ないのは、これら失ったものの「復旧・復興」になっていないからではないか、多くの被災者が語る心情を聞くと、そう思う。
「原発を再稼働しても我々のことが終わってからにしてもらいたい」という被災者の言葉は、政府や地方自治体、国民全てにとって、極めて重い。 10万人以上と言われる原発被災者の前では、Café
de FUKUSHIMAの働きは正に「大海の一滴」と重々承知している。が、「震災以来初めて笑った」という声を聞くと、今しばらくは、これをやめるわけにはいかない。(Kaz)
◆「飯舘村の子供たち」 2017年9月18日
飯舘村は、こども園から小中学校まで一つの敷地に建設中である。国(補助金)や村の努力は凄い。果たしてこれが「継続・定着」するのだろうか、村民が語る懸念の声は、多い。
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「福島県飯舘村の村教委は30日、村内で来春再開する認定こども園、小中学校への就学意向について保護者に聞いた結果を公表した。
「就学しない」が回答数の77.9%に上った。調査は来春通う可能性のある0歳~中学2年の736人を対象に、408人の各保護者から回答を得た。回答率は55.4%。「就学しない」は318人。「就学する」は52人(回答数の12.7%)で、「迷っている」は38人(9.3%)だった。「就学する」の内訳は認定こども園8人、小学校15人、中学校29人となった。」(河北新報8月31日)
飯舘村は、こども園から小中学校まで一つの敷地に建設中である。制服・運動着・給食費・教材費・PTA会費などが無料で、村の資料によれば、小学生(6年間)で約71万円、中学生(3年間)で約68万円が無償化される。16台のバスやタクシーで県内各所から飯舘村の学校まで送迎する。国(補助金)や村の努力は凄い。果たしてこれが「継続・定着」するのだろうか、村民が語る懸念の声は、多い。(Kaz)
◆「被災地の「復旧・復興」」 2017年9月18日
帰還者は、「今後増えても2割程度」と言われている。原発事故によって、広大な超過疎化・超高齢化地域が出現する。
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避難指示が出ていた市町村の総面積は、約2,100平方キロ、人口は約8万人である。(報告者の集計)
この面積を首都圏に当てはめると、横浜-船橋-越谷-坂戸-高尾の各駅を結んだ面積に相当する。「避難指示解除地域の居住者は5,951人で、住民登録者数49,997人の12%(毎日新聞9月9日)」である。
帰還者は、「今後増えても2割程度」と言われている。そして、若い人の多くは戻らないので、高齢化も著しい。「65歳以上が占める高齢化率は、7~8月現在で49.2%に達している(原発事故前は27.4% 日本全体では26.7%)」(同)。
高齢化率49.2%とは、日本全国都道府県市町村1,956との比較で、上から13番目に入る。原発事故によって、広大な超過疎化・超高齢化地域が出現する。お会いしている被災者にとって、「復旧・復興」とは何なのだろうか。(Kaz)
◆「復興住宅でのイベントについて」 2017年8月22日
仮設住宅は、現在約6,000戸・12000人、復興住宅は、最終的に約7,697戸、住民数2万人になると言われています。 よく言われる「賠償金格差」もコミュニティー作りの障害になるでしょう。「会って親しくなる」ことで克服するしかありません。
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福島県の避難者数は約8万人です。この集計には、浪江町、富岡町、大熊町、双葉町、飯舘村の5つの町と村から県内に避難している住民、あわせて2万4000人以上が含まれていないそうです。そして、避難地域の人口は、やがて1/4になると予測されています。
仮設住宅は、現在約6,000戸・12000人、復興住宅は、最終的に約7,697戸、住民数2万人になると言われています。 復興住宅は、入居が始まったばかりです。
先祖代々同じ部落に住んでいた方々は、元々東京や横浜のように「みんながよそから来た人」が住んでいる地域とは「地域(社会)」の捉え方に大きな差があります。福島県民の「閉鎖性」とも言われます。同じ町村でも海側に住む人と山側に住む人では、言葉遣いから違うそうです。
「出身地はごちゃまぜ」の復興住宅に新しいコミュニティーを作らないと、住民の孤立は解消できません。イベントは、住民の出会いの場を作り、新しいコミュニティー形成の有力な手段になります。
また、原発立地自治体の方もそうでない方も一緒に住んでいます。よく言われる「賠償金格差」もコミュニティー作りの障害になるでしょう。「会って親しくなる」ことで克服するしかありません。
復興住宅の皆さんにお聞きすると、ここを「終の棲家」と考えているのは、約半分です。帰還困難区域の住民は「帰りたくても帰れない」のです。復興住宅に移ったとは言え、まだ多くの皆さんは避難者です。(Kaz)
◆「飯舘村のフレコンバック」 2017年8月2日
飯舘村内のフレコンバックは、120万個・約240万立方メートル、東京ドーム2杯分(今年1月末現在)。中間貯蔵所への搬出が終わるまでに100年かかると言われている。
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サマリタンハウスに戻る際に飯舘村を通ってみました。測定した放射線量は、道端で0.76μSvありました。飯舘村内のフレコンバックは、120万個・約240万立方メートル、東京ドーム2杯分(今年1月末現在)。中間貯蔵所への搬出が終わるまでに100年かかると言われている。
フレコンバックは、福島県全体で約1,600万m3~2,200万m3あり、東京ドーム(約124万m3)の約13~18倍に相当します。中間貯蔵は、貯蔵開始後30年以内に、全部福島県外で最終処分を完了することになっていますので、100年かかって村から搬出する前に、福島県の中間貯蔵所はなくなります。
飯舘村残るこのフレコンバックも、村民が帰還をためらう大きな要因になっています。(Kaz)
◆復興住宅の支援について 2017年8月2日
復興住宅への入居は、避難生活の終了とする考えがあります(これについては改めて書きます)。しかし、決して「一丁上がり」ではありません。
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入居期限が迫っている仮設住宅住民の受け皿(転居先)として復興住宅(災害公営住宅)があります。福島県では、原発被災者向けの公営住宅を「復興住宅」と定義しています。計画では、約5,000戸(推定10,000人)が完成します。
復興住宅への入居は、避難生活の終了とする考えがあります(これについては改めて書きます)。しかし、決して「一丁上がり」ではありません。この報告でも被災者・避難者の意向が分かりますが、復興住宅を「終の棲家」とされる方は約半数です。仮設には居られないので取りあえず入居している方を始め、除染を待っている帰還困難区域(年間20ミリSv以上)の方、いずれ自分の家を建てる予定の方など様々です。
県営ゆえに、居住者は被災市町村向けに分かれてはおらず、混じり合っています。原発立地(誘致)町村民に対して、周辺市町村民は、被害補償金などに大きな格差があって、快く思っていません。「原発は、私たちにとって恩恵はなかったのに被害だけ受けた」という感情です。同じ復興住宅の住民同士がこれを克服するのは難題です。また、部落(地域)付き合いの濃密な地域性・県民性もあって、6年で醸成された仮設住宅のコミュニティーを再構築するには、相当な時間を要するでしょう。復興住宅支援は、コミュニティー作りの手助けでもあります。
復興住宅の住民もまた「被災者」であり「避難者」です。(Kaz)
◆市町村によって異なる避難者支援/戻らない避難者・戻れない避難者 2017年6月20日
被災地を巡っていると、市町村毎で原発事故に対する思いがかなり違うと感じる。原発爆発後真っ先に避難した葛尾村民は、相対的にソフトな受け止めをしている。
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また、これとは別に、仮設住宅住民の置かれている状況を見ると、避難民に対する行政の支援も差が大きい。
例えば、飯舘村は、避難指示が最も遅れたが、みなし仮設などで孤立している避難者を「未だに」支援している。「自殺防止の話」をするというのも、村が村民の状況を把握し手を打っていることの表れである。(Kaz)
「戻らない避難者」・「戻れない避難者」
被災地では、「戻らない避難者」・「戻れない避難者」が、圧倒的多数です。本文中にあるように、理由はそれぞれです。仮設住宅の入居期限は来年3月に迫っています。
東京電力福島第1原子力発電所事故による避難指示が帰還困難区域を除き解除された福島県葛尾村で、帰還者数が今月1日現在で147人にとどまることが、同村への取材で分かった。
12日で避難指示解除から1年が過ぎたが、帰還者の割合は約1割にとどまる。
農業を再開したのは稲作で14戸、畜産で4戸。全ての避難指示が解除され、14 日で1年を迎えた川内村でも、今月1日現在で自宅に戻ったのは61人にとどまった(川内村調べ)。約240人が村外に避難し、住民帰還の割合は約2割にとどまっている。(日本経済新聞
2017.06.15)(Kaz)
◆「自殺・孤独死/同情と共生」 2017年6月20日
「被災者支援、3年で4億円減額 精神科病床が激減 関連自殺、福島突出80人」
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「原発事故の影響で福島県沿岸部の相双地区の精神科病院は五つから二つに減り、約900床あった病床数も約110床まで激減」(毎日新聞 2017.03.01 グラフを含む)
「被災者は支援の終わりを恐れ、高い自殺リスクにさらされている。」(河北新報2017.05.26)
阪神・淡路大震災(1995年)の災害復興公営住宅では、昨年1年間に確認された「孤独死」が65人(前年比32人増)でした(朝日新聞 2017.01.13)。福島県内でもこれから先何十年も同じことが起こるのでしょう。(Kaz)
「同情と共生(支援)」
このような立場におられる避難者の方々に、「同情と共生(支援)」をしなければなりません。また、その支援は、「仮設を出たが故郷には戻らない避難者」にも及ばなければなりません。復興住宅(福島県の場合は、「原子力災害による避難者のための復興公営住宅」)が、その一つです。6月以降復興住宅支援にも注力したいと計画しています。その様子は次号以降でお伝えします。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマ12:15)(Kaz)
◆「被災者・避難者の近況」 2017年4月12日
避難指示解除と福島県民/避難指示解除と放射線量/避難指示解除に伴う学校の再開/Café de FUKUSHIMAのこれから
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避難指示解除と福島県民
第一原発事故などによる避難者は、全都道府県で約12万3千人です。
福島県の自主避難者・10,500世帯26,600人は、3月末で住宅の無償提供が打ち切りになりました。自主避難者だけでなく避難指示されていた避難者の方々も「帰らないのは自己責任」になりました。戻らなくても住めなくても、家屋に固定資産税が掛かるようになります。
「こどもに戻るなと言われている」「自宅近くの線量は○○もある。戻れない」支援の現場では、たくさんの方が語ります。
「事故から六年という人為的区切りの後はもう、生活再建を自己責任に任せるというのでは、避難者は追い詰められるばかりだ。最悪の場合、自殺を選びかねない」(早稲田大学教授の辻内琢也さん 2017.3.9
東京新聞)(Kaz)
避難指示解除と放射線量
避難解除基準は、放射線量が年間20ミリシーベルトで、これは「事故時」「緊急時」の値です。チェルノブイリは、1mSv/年を超えると「移住権利」、5mSv/年を超える場合は、「移住義務」です。
「3回目の除染をしている」と言う避難者の方が何人かいました。山がちな地形や農業設備がある被災地では、都会と違い除染も尋常一様には出来ません。線量が、「隣とは違う」「道路の線量も真ん中と端では違う」のです。これを一絡げにして解除するので、戻る人は僅かになります。(Kaz)
2017年4月避難指示解除に伴う学校の再開
Café de FUKUSHIMAが支援している市町村の小学校再開は、次の通りです。
南相馬市小高区の小学校は、児童数が4校で62人、2010年度(705人)に比べ9割以上減少した。今年度の新入生は4人。避難先(鹿島区)で仮設校舎だった前年度(2016年)からは2/3に減った。親の住まいが小高区ではなくて、鹿島区などから通う生徒もいる。
同じく避難指示が解除された町村の小学校の生徒は、浪江町が、5人(2010年度1162人)、飯舘村は、51人(同348人)、葛尾村は9人(同68人)である。葛尾村(帰還率6.2%)は、生徒が集まらず学校再開が1年延期となった。
親が帰還しないので、生徒の減少は当然です。放射能汚染が主因です。「地域の人口減少で職場もない」のと、「農業など自然相手の生業が成り立たない」ので、親はそこでは生計が立たないのです。子どものいない地域は、復興は叶わないでしょう。(Kaz)
Café de FUKUSHIMAのこれから
この報告にもありますように、未だ未だ支援(イベント)は、求められ、喜ばれ、必要です。
住民が半分になった仮設住宅でも、「未だ半分も避難者が残っている」という理解がディアコニアとして必要です。仮設住宅の月間予定を見ると、Café
de FUKUSHIMAのイベントが唯一という所もたくさんあります。
仮設の住民減少は、「何パーセントか」ですが支援者・ボランティアの減少は「何分の一か」です。被災者・避難者の支援者への期待は増しています。」
今回は、過去のイベントの写真を幾つかの仮設(自治会長)に配達しましたが、多くの会長さんから「また来て」「今度いつ来る」と言われました。
最近の傾向として、仮設を出た方が古巣のイベントに参加することがあります。ある自治会長さんは、「出た人の方が住民より多い」と語っておられました。「仮設を出た先で、話し相手がいない」のです。心ならずもではありますが、6年間同じ境遇で過ごした仲間は、避難者にとって貴重な財産です。自治会長さんには「仮設を出た方の参加も歓迎します」と話しています。(Kaz)
◆「被災者・避難者の今」 2017年3月14日
直接お会いした方々の話は詳しく書きました。最近の新聞報道タイトルを拾うだけで全体像が分かります。
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・東日本大震災 6年 今も避難12万人(毎日新聞 3/12)
・震災6年 今も仮設住宅に3万3854人(NHK NEWS WEB 3/10)
・置き去りにされた“心の復興” なくならない震災いじめ、でも…(スポニチ 3/12)
・避難指示解除5市町村住民帰還率13%(毎日新聞 2/7)
・「故郷に戻らない」が大幅増 原発事故の避難指示世帯(朝日新聞 3/7)
・福島県4町村の避難指示、一斉解除へ3万2千人が対象(朝日新聞 2/22)
・福島・楢葉町の避難者、応急仮設終了後の住宅「未定」36% (日本経済新聞 /3/2)
・全町避難 浪江解除 渦巻く不安 もどかしさ(河北新報 2/11)
・福島県避難者、PTSD上昇 支援打ち切りへ...不安感が増加か(福島民友新聞 2/26)
・大震災6年 関連自殺、福島突出80人(毎日新聞 3/1)
・大震災6年 仮設住宅で死亡 31市町村で計1436人 孤独死した被災者は230人(毎日新聞 3/11)
・福島県が発表の避難者に2万4000人余含まれず(NHK NEWS WEB 3/12)(*2)
被災地についてマスコミは、「ここがこのように復興した」という報道が主体です。お会いした皆さんに伺った実像はありません。その中で僅かですが、上のようなことも報じます。支援者にとって心が痛みます。「支援(同情と共生)を終わりにしてはいけない」そう思っています。
支援は、避難指示解除がゴールになりません。仮設住宅が廃止になったり補償金が無くなったりすることで、避難者・被災者の境遇が変化(悪化)します。仮設から去った被災者・避難者を探して、訪ねなければなりません。(Kaz)
◆川内村の方々 2017年3月14日
川内村は、2011年3月12日の原発爆発後14日から屋内退避、15日に自主避難開始、2012年1月31日帰村宣言、同年8月(今から4年半前)、早々に補償金が打ち切られました。
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昨年末に続き皆さんに「米」(5㎏詰め46袋 230㎏)をお配りしました。
仮設住宅は、「災害救助法」によって設けられていますが、供用期間は建築工事が完了した日から2年以内です。1年毎の延長を繰り返して今に至っています。川内村は延長されず、今年3月末で供与が終了します(川内村の他に、いわき市、相馬市、南相馬市(旧避難指示区域は除く)、広野町、新地町も同様です)。
郡山市の仮設に避難している方々に尋ねたところ、ほとんどの方が村に戻ります。「村にも戻ったら米の支援が受けられなくなる」「裏山は線量が高いのだが…」「家は直していないが仕方が無い」などと皆さんが話していました。
「川内村にも是非来てください」と皆さんに切望されました。必ず行くつもりです。(Kaz)
◆「復興住宅が避難生活のゴールなのか」 2017年3月14日
「福島県が発表の避難者に2万4000人余含まれず」(*2)は、原発周辺町村避難者が災害公営住宅などに入居した場合、「安定した住まいがある」として避難者数から除外するためでした。
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以下報道から抜粋して引用
「住まいが安定しても地域とのつながりを失い帰還を望む住民は少なくない。避難者かどうかは、住居の種類ではなく暮らしを取り戻せているかをきちんと把握して判断すべきだ」(福島大学天野特任准教授)
入居者の話
「住まいは安定はしているが心は安定していません。ここはあくまで仮の住まいです。ここで一生を暮らさなければならないと思うと不安でいっぱいです」と話していました。 (引用終わり)
今回もこれまでも報告には復興住宅の方々に伺った話を書いています。支援が必要であることは明白です。福島県の原発被災者支援は、復興住宅にも及ぶべきです。避難者数のカウント方法は「良きサマリヤ人」の関心事ではないとして、福島県とは双方向チャンネルがありますので、「必要だ」ということを発信します。(Kaz)
◆被災者の証言 2017年2月15日
皆さまの証言をたくさん伺いました。「ここでは何にも仕事が出来ず暮らしていることが苦痛」「(困っていることは)一杯ありすぎです」「孫と一緒に住めない」「村に帰りたいが帰れない」などです。
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1月28日に、今村雅弘復興相は「福島、東北の復興も3月にはいよいよ7年目に入る。マラソン(42.195キロ)でいうとだいたい30キロ地点ぐらいにきている」と語り、これに対し内堀福島県知事が、「避難指示区域にはまだスタートラインに立っていない地域もあり、指示が解除された地域は復興の序ノ口。」と語りました(毎日新聞2017年1月29日)。
知事の方が被災者に近いと思います。被災者・避難者の心の傷や、故郷・家族・環境・人生など喪失したものへの思いを考えれば、復興マラソンはスタートラインも遙か彼方です。(Kaz)
◆「避難指示解除のその後」 2017年2月15日
「福島、住民帰還率がいまだ13% 原発事故の避難解除地域」(西日本新聞 2017年01月28日)
原発事故の避難指示が2014年4月以降に解除された福島県田村市、川内村、楢葉町、葛尾村、南相馬市の5市町村で、解除された地域への住民の帰還率が全体で約13%にとどまることが28日、各自治体への取材で分かった。(引用終わり)
仮設住宅を出てどこかに移り住んでいる方々を探して訪ねなければなりません。自宅に戻れずほとんどは補償金もなくなった方たちです。(Kaz)